2011.09.23 Fri
藤原京の遺跡から掘り起こされた土の固まりから、日本の原風景とでもいうような広い田園と美しい月夜へ映像が移る。その風景と重なるように、万葉集の歌が詠まれる。
『朱花の月』のこのような始まり方は、後にくる物語を要約している。
二人の男が一人の女を取り合う。女は、離れてしまった男を想う。それは今では遺跡となった場所に都が存在していた頃から、それより昔の神の時代から、変わらず続く世の常なのだと。
だから物語に大きな波乱が訪れようとも、それを許容する用意は初めから出来ているともいえる。
しかし、人物の表情を捉えたまま動かない画面の外から鳥の鳴き声がするとき、そうした細かな映像が広大な田園風景へと移り変わるとき、そして現在から過去へと縦横無尽に物語が展開を見せるとき、私たちはこの映画のもつ豊かさに驚かされ続けることになる。
主人公は染色家の加夜子。タイトルにも使われている「朱花(はねづ)」という、血のように赤い染め物の色に魅入られている。
地元PR紙の編集者であり恋人の哲也は、地域の作物で事業を起こそうと考えている。加夜子は哲也と同居しながらも、木工作家の拓未とも恋人関係にある。
やがて発覚する加夜子の妊娠は、彼らの関係に少しずつほころびを生み、穏やかだった三人の生活をゆるがしていく。
ここまでは物語の始まりが示唆したとおりの展開を見せる。しかしそこへ加夜子の祖母と拓未の祖父の世代の物語が突如として割り込み、男と女の物語が幾重にも重なり合う。
そして現在の加夜子と哲也、拓未の物語は、何千年も前から続いている歴史の一部となるのだ。
それは今、ここ、という狭い場所に収まることを、物語が拒絶し続けているようにも見える。三人の男女の世界が、あらゆる枠を越えて広がっていく。
それでいて人の生活の営みを実に細かく観察した、河瀨直美監督自身の撮影による映像が実に美しい。
興味深いことに、主人公の加夜子は劇中でいっさい料理をしない。恋人の哲也と拓未が食事を用意し、彼女の「帰宅」を待つ。加夜子は妊娠した自分を支えてくれることを待ちながらも、それぞれの家にいる男たちは彼女の帰宅を待っているだけだ。
このバランスの崩壊はゆっくりと着実に訪れ、少しずつ表面に表れ始める。
彼らは言葉では多くを語らない。その代わりに、カメラが捉えた広大な風景と一瞬の細かい動作が、静かに語りかけてくる。
その語り口には多少のもどかしさを感じながらも、それすらも悠久の時の流れの中に収めてしまう力が、この作品にはある。
私たちもまたその流れに身をまかせ、ひとつひとつの映像と音の世界にうずまることで、そこに内包された豊かさに気づかされる。
『朱花(はねづ)の月』
(河瀨直美監督/日本/2011年)
(C)2011「朱花の月」製作委員会
渋谷ユーロスペース、TOHOシネマズ橿原ほかにて全国順次公開
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カテゴリー:新作映画評・エッセイ
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