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往復書簡① イラン映画『別離』について 佐々木あや乃x川口恵子

2015.05.01 Fri

本年度アカデミー外国語映画賞受賞作イラン映画『別離』について、ペルシア文学をご専門とする東京外国語大学大学院総合国際学研究院 言語文化部門准教授・佐々木あや乃氏にWAN映画欄コーディネーター川口恵子が往復書簡形式でお話をうかがいました。三回に分けてお送りします。

ハリウッド映画と異なる作り

川口:この映画をご覧になって最初にもった印象についてお聞かせください。

佐々木:「アスガル・ファルハーディー監督らしい」作品だと思いました。導入部分で身分証明書をコピーするシーンをコピー機側から映し出している手法がとられていますが、前作「彼女の消えた浜辺」の喜捨ポスト(イランの街角や店先に常時設置されており、貧しい人々のために役立てる目的で日常的な寄付を募るもの。旅行前には旅行の安全を祈ってお金を入れる人が多い)の内側からのシーンと重なりました。

また、観客にさまざまな可能性を想像させ、相当観客を翻弄した挙句、「結末は自分で考えてみようね」というスタンスをとる、というところが、ハリウッド映画等とはまるで異なり、憎いほどよく練られていると感じました。これまでのイラン映画の中でも傑出した作品といえるでしょう。

逆に、ファルハーディー監督作品第一作目という、まっさらな状態でご覧になると、どういった点が特別に印象に残るでしょうか。

川口:イラン映画というと、これまで、アッバス・キアロスタミの『友だちのうちはどこ?』のように、純粋な子供の視点から清貧ともいうべき村の暮らしをスケッチしたものや、マフバルバフ監督作品に出てくるバザールのように、日常を詩的かつ神秘的に描く作品しか見てこなかったので、今回の『別離』のように、テヘランという大都市に住む現代の夫妻の話というのは、とても新鮮でした。現代中流家族のイラン人夫妻を主人公にした映画を初めて見ました。現代的で、群像劇風でもあり、多中心的な演出が新鮮でした。スピーディーな会話のやりとり、状況がめまぐるしく変化するさま、訴訟を中心とする物語設定が、アメリカのTVドラマ『LAW & ORDER』を思い出させます。第一印象としては、まず、とにかくよくしゃべる人たちだな(笑い)、と驚かされました。また、ナーデルの妻や娘、家政婦に対する態度が少々強圧的で、いまどき珍しいな、という印象をもちました。こういう人がイラン映画では、男性主人公として通用するのか、知りたいです。日本ではまず通用しない(笑い)主人公です。

佐々木:イラン人がおしゃべりなのは世界中でとてもよく知られています(笑)。男性主人公のナーデルもその例外ではありません。いきなり夫婦が裁判官に向かって陳述を始めるシーンでは、台詞に台詞がバンバン被ってきて、2人とも興奮しているから収まる気配もないですし、日本の観客のみなさまは心底びっくりされたことでしょうね。とにかく黙ってしまった方が負け、という大陸的な文化です。それでも、一応「沈黙は金」ということわざも存在してはいるようなのですけど(笑)。

男性主人公ナーデル

「ナーデル」は現代のイランの都会あたりに比較的よく見受けられる男性の典型といいますか、いえ、もっともっと頭が古くさくてさらに高圧的な態度にある男性はイランにはまだまだごまんといますので、比較的「理想に近い」男性と言っても過言ではないように私の目には映ります。古い考え方の男性が一家をしきっている家庭であれば、自分を放って妻(と娘?)が外国に移住するなど、はなからありえない選択肢であり、そういう家庭がモデルであればそもそもこの映画のストーリー自体が存在しなかったはずです。私たち日本人にはちょっと考えられないことですが、今でもイラン人女性は父親あるいは夫の許可なくしては、たとえ仕事であろうと海外に出かけることはできません。私の友人には、ご主人を置いてアフガニスタン、日本、イタリアと飛び回っている研究者もいますから、「理解ある夫」も勿論いるわけですけど。スィーミーンがパスポートも所持し、海外移住権取得のために奔走できた、ということは、彼女が「恵まれたイラン女性」の代表である証しだと思います。

余談ですが、私は最初から最後まで、完全にナーデルの目線で映画を観ていました。私は女性ですが、男性であるナーデルの考え方に特に違和感をおぼえなかったのは、やはり私が見知っているイラン人男性と比べても比較的リベラルで真っ当な人間に見えたからではないでしょうか。わけのわからない、狂信的なイスラームに振り回されている、視野の狭い人ではない、という点を、自然と私は高く評価したのかもしれません。

一言付け加えさせていただくなら、今回のこの作品にはハリウッド映画に出てくるようないわゆる「悪役」は、誰一人として登場しません。これもファルハーディー監督作品ならではの特徴といえるでしょう。

イラン社会の現在:家族関係、信条、格差、介護、海外移住の問題

川口:イラン国内ではこの映画はどういう風に受けとめられているのでしょうか?

佐々木:イラン国内でも、一般の人々からは高く評価されています。イラン社会が今現在はらんでいる、家族との関係(親子、夫婦)、信条について、貧富の差、介護、海外への移住等々の問題が見事にちりばめられているため、他人事とは思えず食い入るようにスクリーンを見つめる人も多かったのではないでしょうか。イランの映画館での上映に立ち会えなかったのが残念でなりません。

国内での人気や評価が高かったため、アカデミー賞へノミネートされることになったわけで、決して最初から監督が外国向けに無理をして制作した作品ではありません。ただし、イラン政府は西欧の影響を極力国内に持ち込まないように努力していますので、イラン国営放送では全くアカデミー賞外国語映画賞受賞は報じられませんでした。国内でノミネート作品が選ばれている段階では、この作品が最有力候補と報じていたにもかかわらず、です。それでも、多くのイラン人にとって最大の娯楽の1つである映画のことですから、21世紀となった今、多くのイラン人は衛星放送やインターネットにかじりついてこの作品の受賞をオンタイムで知り、非常に喜んでいます。イランの新年(春分の日)に向けて早めに帰国したファルハーディー監督は、空港内で彼の姿を携帯カメラに収めようと押しかけた人々によって、身動きができないほど熱烈に歓迎されていました。

ただし、イラン在住のイラン人に尋ねたところ、前作「彼女の消えた浜辺」の方が、より現実味があった、共感しやすかったという意見もありました。イラン人は人なつっこく、温かく、家族や親戚をとても大切にし、頻繁に電話で連絡をとりあったり、紅茶を飲みながらおしゃべりに花を咲かせたりするのですが、今の都会では私が思っているほど人間関係とりわけ親子の結びつきは強くなく、逆に薄れてきているのかもしれません。友人曰く、とりわけ高齢の親に対しては、ナーデルのように献身的な介護をする人はかえって珍しく、仕事が忙しいから、遠くに住んでいるから、などと理由をつけて、少し距離を置こうとする人も少なくないとのことでした。その部分でナーデルに多少なりとも共感できないと、「せっかく移住権がとれたのだから、スィーミーンの言うようにさっさと移住してしまえばよいのに」というスタンスでこの映画を観続けることになってしまい、この映画に描かれている他の問題にまで目が届かず、作品自体に興味が持てなくなってしまいかねません。

川口:ナーデルは、女性に対して強圧的な態度をとる以外は、妻に出て行かれても必死で家族を守ろうとする点で、共感がもてます。父親の体をふこうとして、ふっと手をとめたシーンでは、大きな手袋をはめた手が哀れで、胸をつかれました。ちゃんと弱さもみせているのですね。娘の宿題をみている場面などもいい感じでした。細かい点で恐縮ですが、ペルシア語の言葉をいくつか挙げる場面(国語の問題でしょうか?)がありましたが、娘の答えた言葉に対して、それはアラビア語だ、と訂正する場面など、興味深いものでした。あのやりとりには、何か特別な意味があるのでしょうか?また、今最後におっしゃった、この映画が描く「他の問題」というのは、どういったものでしょうか?

ペルシア語教育の場面

佐々木:ペルシア語においては、イスラーム(7世紀中葉)以降アラビア語が、さらに近代以降はフランス語、現代では英語が幅を利かせるようになったため、近年「純ペルシア語への回帰」的な動きが高まり、学校教育でも外国語に頼りすぎないペルシア語教育がおこなわれています。おそらくあの日はペルシア語(国語)の試験があったのでしょう、娘に一問一答式で復習をしてあげ、たとえ娘の教師が言ったことでも間違いとわかると教え直し、誤りは誤りだと主張し、娘に正しい知識やおこないを授けようと努めるナーデルは、教養高く、娘を思う優しい気持ちに溢れた父親だといえるでしょう。ただし、少し主張が強すぎて強権的だという印象をもつ人もいるかもしれませんね。ナーデルのエゴイズムの表れと解釈することもできるでしょう。アラビア語を徹底的に回避しようとするあたりは、彼が生活の中のイスラームをさほど重視しない、敬虔ではないムスリムの代表として描かれているのだと思います。

〈嘘〉という重要なテーマ

 「他の問題」というのは、イラン社会がはらむ数々の問題、たとえば生活の中のイスラームの問題、貧富の問題、夫婦の問題、親子の問題等です。さらには、1人の人間として、ある社会を生き抜くための知恵や処世術についても提示されています。ファルハーディー監督が前作「彼女が消えた浜辺」で取り上げた「嘘」が、この作品においても重要なテーマとなっています。登場人物のほとんどが「嘘」をついているのは、注目すべきですね。日本でも「嘘も方便」と言いますが、彼らがつく嘘にも彼らなりの「方便」があるわけです。

第二回に続く
映画『別離』C-WAN評はこちら
『別離』

4月7日(土)より、Bunkamuraル・シネマほか全国ロードショー 

(C)2009 Asghar Farhadi

※第21回アジアフォーカス福岡国際映画祭上映時タイトル
「ナデルとシミン」“A Separation”を改題


製作・監督・脚本:アスガル・ファルハディ
出演:レイラ・ハタミ、ペイマン・モアディ、
シャハブ・ホセイニ、サレー・バヤト、サリナ・ファルハディ、
ババク・カリミ
撮影:マームード・カラリ
編集:ハイェデェ・サフィヤリ
2011年/イラン/123分/カラー/デジタル/1:1.85/ステレオ/ペルシア語
原題Jodaeiye Nader az Simin
英題Nader and Simin, A Separation
日本語字幕:柴田香代子 /字幕監修:ショーレ・ゴルパリアン

配給:マジックアワー、ドマ 

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カテゴリー:新作映画評・エッセイ / 特集・シリーズ / 映画を語る

タグ:仕事・雇用 / 非婚・結婚・離婚 / 高齢社会 / 映画 / ケア / 川口恵子 / イラン映画 / 女性表象 / 女女格差 / 女性と宗教 / 佐々木あや乃