2009.06.22 Mon
いつ、なぜアーティストになったのか?という質問に答えて
具体的には大学4年間の終わりに、表現者としての道を選ぶことを決断したと思う。舞台美術の研究会に学外で参加していた関係でテレビ会社受験の話が舞い込んだ。しかし、紹介者が居たにも関わらず、受験しに行く事をやめた。そのとき、やりたいのはそこにはないと思ったのだろうと回想する。幼児のころから引っ込み思案、いつもあたりをじっと見ている自分の姿を記憶している。そして絵を描くのが好きだった。小学生になると近所の男の子たちと三角ベースボールをしたり、探検ごっこをしたり、生傷が耐えない子になった。3年生になると、「男の子と遊んでらあ」と囃されたのをきっかけに、ぱたりとベースボールをやめ、今度は紙芝居つくりを始めた。家にあった世界童話全集から話を選び、シーン割りして絵を描いてゆく。10円のお小遣いを持って画用紙を買いに走るマイブームが続いた。当時八つ切りの紙なら5枚は買えた。友達を誘って、「紙芝居って面白いよ」と説得し、彼女のお菓子を画用紙に変えてしまったこともあった。見せて人を喜ばせることよりも、作る過程が好きだった。
絵を喜びとする親だったから、私は絵を描くことの許可を子どもの頃から得て居た。
わたしのクレパスはいつも24色ではなく、30色入り、せっせと色を混ぜ合わせ絵を描いた。進学も当然美術系、しかし、生意気盛りで独りよがりの私は、受験校に合わせてデッサンの手法を学ばなくては望む美大に入れないということに、意を添えず嫌った。そこで高校2年のときには大学へ行くなら和光大学だとさっさと決め込んで、そのまま受験した。ところが和光向けデッサンがあったのだ。デッサンの受験場で先生が私のデッサンを見て通り過ぎたとき、「受かった」と確信した。和光大が単科大ではないところも選んだ理由。いい絵を描くには、描くだけでは足りないと欲張っていた。
1970年に1年生、安保の年で学内は騒々しかった。私はカトリック女子校の隠れ反戦女子だったのでベ平連の集会や、そのしっぽに捕まりながらデモに参加した。ジーンズを履く事とデモに行く自由を得た事がとにかく嬉しかった。そして、7月にあった富村順一の「東京タワー立て籠り」事件にかすめるように遭遇する。学内に小さな富村さん支援グループがノンセクトで生まれた。このグループに近づいた私が体験したことは、富村さん支援をかざした他大学生第四インターによる乗っ取り劇だった。彼らが何を言っているのかわからず、噛み合う言葉はなく、這々の体でわたしは退散した。本当の富村さんの主張を知る前にセクト主義にやられた。
学生運動の高揚、新宿地下道にあった時代のほとばしりに心熱くした者が体験した負のエネルギー、それに向き合うには「自分の言葉を持たなくては」だった。実感を直接的に、その思いは「身体が介入するアート」を遂行することへ向かわせた。
富村さんがやったのはパフォーマンスである。しかも政治的なパフォーマンス犯罪だ。東京タワーの展望台に包丁を持って1人を人質に立てこもり、「日本人よ君たちは沖縄のことに口を出すな」を書いたTシャツを着ていた。当時の報道から聞こえてくるエキセントリックな行動だとするバッシング、私も富村さんが言っていることに疑問符をかかえたまま、時を過ごしていった。
現在、私は日本軍「慰安婦」にさせられた朝鮮人女性のこと、沖縄で軍隊による性暴力にあった人々のことをパフォーマンスしている。
学生の時にやり残し、潜在的にひきずっていたことを今やろうとしていると気付く。
便宜的に自分はアーティストだと名乗るけれども、物事へのこだわりをこだわり通す人をアーティストだと定義つける。
週に2度自閉症の大人の人たちのグループホームで夜間支援のバイトをしている。そのなかに、物をあるべき場所にもどすというこだわりに生きているひとがいる。
その戻し方には美的センスが溢れ、所作へのこだわりがすごい。変化への即対応をしないから、私はイライラさせられることが多いが、日常生活という時空間はゆっくりと変化を彼にも運んでいく。彼の部屋と共有スペースすべては彼の価値観のもとに美的にいつもかたずけられている。彼の行動はアート行動だと思う。
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