原発ゼロの道 エッセイ

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原発を問う その4 大阪法廷パート2 ② 岡野八代

2012.06.28 Thu

6月18日、原発を問う民衆法廷 第四回、大阪での第二回目法廷が開催さましたた。テーマは、「原発再稼動は犯罪だ!Part 2」。

前回4月15日の法廷では、「万全の安全対策抜きの原発再稼動は許されない」との、判決がくだされました。大飯、美浜、高浜、伊方など、福井第一原発事故の真相究明がなされないまま、再稼動することは許されないと判断されました。(この判決については、すでに報告書が出版されています)。

今回は、「原子力関係法は違憲である」こと、原発を禁止する世界の憲法に言及しながら、日本でも「原発と人権保障、平和は両立しない」ことが訴えられました。

さて、今回わたしは初めて、進行役を仰せつかり、最終的な判決を下す役を引き受けました。民衆法廷といえば、わたしにとって最初の経験は2000年、女性国際戦犯民衆法廷です。東京九段会館にて、大勢の人たちと法廷での証言、意見陳述を固唾をのんで聞き取りました。その経験があるわたしでさえ、判事としてみなさんの前に座り続けることの意義を、じつはいつも自問しています。

・実際の裁判闘争に力を注ぐべきではないか?

・なぜ、「法廷」という権威にすがるのか?

・デモなどの実力行使で、政治的なアピールをするべきではないか?

・所詮模擬裁判じゃないのか?

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などと、大きな疑念に常に曝されています。女性国際戦犯法廷を経験したにもかかわらず、本当に自信をもって、いまこそ民衆法廷と、心の底から主張することにためらいすら感じています。

ただ、民衆法廷に携わっている実務家の方や法律家の方とご一緒させてもらう中で、そして、もちろん、民衆法廷の運営を直に担っている実行委員の方たち、そして原発に反対し続けてきた人たちの言葉を聞きとるなかで、法廷という空間の意義が少しづつ見えてきました。

国家が独占する法廷は、裁きの場です。しかし、法廷はそもそも、テニスコートなど、囲われた庭や土地を意味していました。ウィンブルドンの試合をじっと観衆が見守るように、法廷は、何よりも真相解明、事実を公衆の眼前にさらけ出す、といった機能をもっているはずです。

民衆法廷の検事団(刑法上の罪を問う場合)、代理人(再稼動さし止めなど、民事上の訴訟の場合)、そして、民衆法廷には決して現れない被告の権力者たちの代弁をするアミカスキュリエを務める実際の弁護士の方たちは、本民衆法廷がいかに、実際の法廷以上に緊張感に満ちた、そして、真実を明らかにしようとする人々の熱意がこもった法廷であるかを、わたしに示してくれました。

そして、法廷に参加する市民にとっては、地震大国である日本列島に、原発が存在することの理不尽さ、市民の生活と人権を保障すべき立憲国家日本において、そして原爆被害国である日本における、今までの原発政策がいかに市民の命を軽んじてきたものであるかを、深く考える機会でもあるのです。

民衆法廷にはなんの権威もありません。わたしのような素人は、原告である申立人の方々の意見を聞いて、人前にいることが恥ずかしくなるほど動揺してしまうこともあります。わたしたちの知らなかった事実を前に、これまでの自分が動揺してしまうこと。それが、今現在わたしが自分で発見した、民衆法廷の意義の一つです。

さて、今回は、原発関係法は違憲である、という新しい主張がなされました。

アマゾンのサーバでエラーが起こっているかもしれません。一度ページを再読み込みしてみてください.わたしたちはこれまで、原発の平和利用という言葉で、原発=原爆という発想から遠ざけられていました(が、それがいかに、恣意的に、政治的に行われた政策の一貫であったかは、前回も紹介した加納実紀代さんの記事に詳しい)。原爆被害国だからこその、原子力、原爆の犠牲者への鎮魂のための原子力、というねじまがった論理で、原子力計画はどんどんと進められていきました。

ここで、みなが周知の憲法前文を読んでみましょう。

「恐怖と欠乏からのがれ、平和のうちに生存する権利」がまず保障されています。

そしてすでに、6月20日の原子力基本法の〈こっそり改悪〉によって、「我が国の安全保障に資する」という文言からあからさまなように、原発の開発技術と原子力爆弾開発技術は不可分なものであることは、周知の事実です。つまり、原子力技術が潜在的な戦力として考えている限り、第9条の戦力不保持にも反しています。

福島の惨劇は、幸福追求権13条、移動・居住の自由を認めた22条、生存権25条、財産権29条など、これ以上原発を稼働させることは、国家がこうした権利を踏みにじる行為として、極めて強く戒められるべきはずです。

憲法違反については、大阪経済法科大学の澤野義一教授からの証言でより明らかにされました(澤野教授の論考については、こちらからその一端を読むことができます)。

また、澤野教授の証言から、はっとさせられたのは、憲法第11条にある、「将来世代の国民の権利」です。そこには、「この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる」とあるのです。

次回に紹介する元原発下請労働者であった斉藤征二さんの証言にもありましたが、原発は施設に多大な負荷をかけながら運転するために、施設の中はぼろぼろの状態。せいぜいもって20年だということでした。しかしその後、原発施設と燃料棒、燃料棒が発し続ける放射性物質は未来の世代に、それこそ永遠ともいえる間、残存し続けるのです。

これはあきらかに、今注目されている世代間の配分の正義に反しています。

また、原発を禁止する世界の憲法についても紹介されました。

オーストリア1999年憲法には、「核分裂によるエネルギー生産を目的とする施設建設と、既存の当該施設がる場合の指導の禁止」という表現で、原発を無条件で禁止しているとのことです。

大阪法廷では、国家の過ち、国家の暴走を止めることができなかった国民の反省を込めて立憲された、現行憲法の精神を、わたしたち市民が決して手放してはいけないこと、それ以上に、わたしたちが憲法を実践していかなければ、日本の政治は立ち行かないところまで来てしまったことが明らかにされました。

もう政治家には任せていられません。日々生活に追われる一般市民に、政治家たちはこうした問題への対処を押しつけたままなのです。まったく政治家としての仕事をしていないのです。わたしたちが自分の生活に専心していても安心であるために、政治とは公のことを論じ、未来に向かって長期的展望を描き、そして、けっして踏みにじられてはならない一人ひとりの尊厳をしっかりと守るためにこそ、存在しているにもかかわらず、です。

次回大阪法廷③では、伊方原発反対運動が置かれた孤立無援状態といやがらせ、原発下請労働の過酷の状態、内部被ばく問題、そして、10年前に『週刊プレイボーイ』紙上で、福井県嶺南地方の悪性リンパ腫による死亡率の高さをルポした明石昇次郎さんの証言について、ご紹介します。








カテゴリー:脱原発に向けた動き / 震災

タグ:脱原発 / 原発 / 岡野八代