原発ゼロの道

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ドイツ初デモ奮闘記 -脱原発アクションデーinデュッセルドルフ- フックス 真理子

2012.09.20 Thu

それは、一通のメールを書きかけているうちに始まった。

「あ~あ、日本にいたら、官邸前の金曜デモに参加するのにな、残念!」と、ここまで書いたとき、ふと思いついた。あ、そうか、じゃあ、ここでデモをやればいいんだ!と。メールのあて先の友人に即続けて「このデュッセルドルフでデモをしませんか」と尋ねると、「大賛成です!」という答えが返ってきた。

 それから8月25日のデモまで、ひたすら走り続けること4週間。私の本業は、公文式教室の指導者なのだが、それは夏休みの初めのころだった。たまたま、元公文の生徒で、今はメキシコで映画監督やアーティストとして活躍している竹田信平氏がデュッセルドルフを訪問中だった。彼は、北米・南米大陸に住む被爆者の記録を撮り続けてきて、さきごろ国連軍縮局からサポートを受け、このアーカイブを世界の各言語に直すプロジェクトを行っている。「困ったときの教え子頼み」、これは教師稼業ン十年の私の秘策なのだが、デモを主催したなどという経験はまったくなく、今回もこの手を使うべく、竹田氏の知恵を仰いだ。

 すると、彼は「デモ4週間前で、今、ここに集まっているのは発起人のたった3人と僕だけ。これじゃ、たぶん、デモに人が参加したってたかがしれている。それなら、行進じゃなくて、何か目立つことをして、今回はまずその存在をアピールすることに専念しよう!」と提案、そしてライン川にかかる橋にひまわりを1500本結びつけ、それをデモの終わりに流すというアイディアを出してくれた。たちどころに、私たちはその魅力的な計画を実行することに決めた。

 まずは警察に届け出る。「なに?日本の原発に反対?それはよくわかる。がんばってね!」という感じで、とても親切だった。ただし、ドイツでは、言論と表現の自由最優先と同時に、歩行者の権利がもっとも尊重される、つまり、歩道ではなくて車道を歩くのがデモの基本だということも、日本との違いで私たちは学んだ。

 日時と場所が決まったら、フライヤー作り。有名な「原子力?おことわり」のおひさまマーク使用の許可を取る。ドイツ人に、日本語の文字の書いてあるこのおひさまマークは受けるだろうと、バッジをたくさん作って売ることにした。このころから少しずつ、活動に加わる仲間が増えていった。日本人が中心だが、ドイツ人の友だちからも大いに好意的な反応がかえってくる。みんながデモの宣伝にこれつとめた。炎天下、日本人が多い通りで、ビラまきも行った。

   さて、このデモで一番大切な役割を果たすのは、ひまわり。私はデュッセルドルフから少し離れた田舎に住んでいる。うちの近くには、結構たくさんのひまわり畑があって、夏になると、畑から自分で花を切り取り、備え付けの缶にお金を入れる「無人花園」が人気だ。ことの成り行きから、ひまわり調達係となった私は、畑に行って、お百姓さんと1500本のひまわりの値段交渉。われながら値切る才がない。それでも、親切な人を見つけて、全部でたった100ユーロ(1万円)という安値で買い取る商談成立。

 そして当日の音響装置の手配。当地の、ドイツ語で歌う大人気の日本人ラッパーBlumioが、デモに司会として参加、一曲披露してくれることになった。舞台も、雨に備えてのテントも手配済み。横断幕はシーツを切り張りして作り、それに書道の達人が、みごとな文字を書いてくれた。それにしても、デモとは結構お金のかかるものだとは初めて知った。

 なにしろ、デモ発起人は本当に大変だった。あちこちとの連絡やデモのよびかけやアジェンダの準備に毎晩真夜中3時まで忙殺される。夏休みにこんなことを始めてしまったことを、何度後悔したことだろう。でも、もう走り出してしまったからには、止められない。新聞・TVなどには、「当地で行う初めての日本人のデモ」をアピールし、積極的に情報を流したが、これは自分で自分を励ましているようなものだった。

 いよいよデモはあさってという日、ひまわりのお金を先払いしようと農家を訪ねた。すると「ひまわりは全部枯れたよ」という信じられない言葉が!!なんでもこのところの猛暑で乾燥しすぎたのだという。まさかと実際に自分で畑まで車を走らせて行ってみると、先週はあんなに大輪のひまわりが咲き誇っていた畑が、まるでひまわりの墓場のよう。すべてうなだれ、くずおれている。実は、その日は長い夏休みが終わって公文教室が再開する日だった。教室どころではなく、私は、朝から急遽近所のひまわり畑を探しまくった。結局、前回値段の点で折り合わなかったお百姓さんに再度お願いし、なんとか1500本を確保できた。

 そしてデモ当日。朝9時にひまわり畑でひまわりを刈り取り、デュッセルドルフへ向かい、ライン川にかかるオーバーカッセラー橋に一本一本を結びつける。多少タイムの遅れはあったものの、デモ開始2時にようやく間に合う。ひまわりが風にゆれて、橋はきれいな黄色に彩られた。道行く人にも、市電から見る人にも、遠く離れた旧市街から橋を見上げる人にも、その日行われるデモの存在を訴えた。

  だがそのとき、恐ろしい知らせが飛び込んできた。当日来るはずになっていた音響装置が前日の村祭りで雷雨に遭い、すべて壊れて搬入できないという。どうしよう!!片っ端から電話をかけまくる。土曜日の、おまけに集会の始まる1時間前に誰がこんな大道具を調達できようか。必死になって、当日のゲストスピーカー、緑の党の州議会議員や見回りに来た警官たちに「どこか近くに音響技術会社はないでしょうか」とすがりつく。警官は親切に、私物のスマホで探してくれたりもした。緑の党議員も党本部と連絡をとってくれたが、とても緊急には持ち出せないという。

 ああ、万事休すかと思ったときに、とあるメンバーが、「おもちゃなんだけどこれ使えるかな」と差し出したのが小型メガフォン。残り2個のバッテリーを入れると、何とか音は「拡声」される。天の助け、どうぞ最後までバッテリーがもちますようにと真剣に祈ったメンバーも。
 あとで写真や映像を眺めると、あのメガフォンで訴える姿には、切実さがより強く伝わって来るように思う。声を聞き分けたいと人々は耳を澄まし、聴衆との距離がぐっと近づいた。何人かの参加者には、小さなメガフォンで訴える姿には「共感を覚えた」と言われた(経費節約と思われたらしい)。メガフォンはその日、たまたまそのメンバーが何かに使えるかも知れないと、リュックに入れてきたそうな。

 私たちの初デモには、ドイツ人・日本人あわせて300人の参加者があった。日本からの避難者や、日本の脱原発グループからのメッセージ、緑の党、ドイツ人牧師、ベトナム人反原発グループ、ドイツのエコロジストなどのゲストスピーチのほか、Blumioが音響装置が来なくて歌えなくなったかわりに、和太鼓のグループが盛り上げてくれた。最後は皆で橋の上からひまわりをライン川に投げ入れ、原発と別れを告げるという象徴、「日本人が川に流す儀式」としてドイツのマスコミにアピールした。

 何よりも嬉しかったのは、たくさんの日本人から「よくぞこのデモを行ってくれた」「ずっとこういう催しを待っていた」と言われたこと。もっとも反応が大きかったのは、ドイツ人と結婚している日本人女性と長期滞在者。皆ふるさとに思いと危機感を募らせている。一方、一番来ていなかったのは、日本人駐在員とその家族。デュッセルドルフは、日本企業の本拠地だけあって、在留邦人も7000人を超える。デュッセルドルフの「ドルフ」とはドイツ語で「村」の意味だが、ここはまさにムラ社会である。彼らには、会社や学校のしばりがあるから、行動の自由はない。また、たとえ日本にいても、おそらくデモに参加するような人たちではないだろう。

 このデモ、最後の最後までハプニングだらけで、結局ライン川の橋にひまわりを結びつけるとき使った脱原発のおひさまマークのテープが、貼るのは簡単だったのだが、今度は剥がすのがすごく大変で、結局そのあと4時間かけて作業をする羽目に陥った。とほほ。

 それでも、自宅に戻ってみれば、他のメンバーからの情報で、その日の当地有力放送局WDRのローカルニュースで、トップテーマとして私たちのデモが報じられていたことを知った。このドイツのニュースの扱いには、うれしいびっくりだった。

http://www.wdr.de/mediathek/html/regional/2012/08/25/lokalzeit-duesseldorf-japaner-gegen-akw.xml

*この映像の日本語訳は以下の通り*

日本の福島の惨事がドイツではエネルギー転換に導いたのにもかかわらず、日本では最初の原発が再稼働しました。一年半前の災害後、日本ではすべての原発がストップされたのですが、それは数週間前までの話でした。

 それからというもの日本では不思議なことが起こっています。日本人というのは、決して反逆的な性格で有名ではありませんが、この決議に対して強い反対運動が始まりました。現在では毎週原発反対運動が行われています。

 デュッセルドルフに住む日本人たちが大変腹を立てて、初めて原発反対運動を行いました。

 「さよなら原発」、これがデュッセルドルフに住む日本人の世界へ、そしてとくに彼らの故郷に対するメッセージです。発起人の一人フックス真理子は、これだけ多くの日本人が集まってくれたことが信じられない様子です。

 「今日は歴史的な日です。今まで日本人はデモというものを行いませんでした。
でも最近になって、毎週金曜日に国会議事堂の周辺でデモが行われています。
デュッセルドルフに住む私達は、私達も一緒に参加しようと決めました。」

 これが1年半前に大きな災害を被った故郷への遠くからの応援です。

 2011年3月11日、14時過ぎ。地面が震度9度の強度で揺れました。その直後巨大な津波が日本を襲いました。

 1万5千人の人々が死亡、或いはまだ行方不明となっています。

 その後福島原発の大事故

 福島の原子炉が次々に壊されて行きました。

 メルトダウンが起こった時、世界中が震えながらニュースを追いました。

今でもこの地域では16万人の人が新しい住居を見つけることができません。

 彼らの故郷は放射能に汚染されて、廃墟となっています。

 日本の政府がそれでも原発政策を持続する事は、デュッセルドルフの教師でもある彼女とその仲間にとって信じがたい事実です。

 それでも日本人の心の中で何かが動き始めた、と彼女は述べています。日本でも緑の党ができました。

 それは数年前には信じられないことでした。

 「やっと今になって、日本人は腹を立てて、政治にも目覚めました。だから今がとても大切な転換期なのです。」

彼等は原子力の代わりに太陽光のような自然エネルギーを要求しています。

川に流してお別れをするという日本の古い習慣に習って、彼等は最初のデモを終了しました。

「この象徴により、原子力を止めて太陽エネルギーの方向に進めてほしいということを言いたかったのです。」

「一つ一つの花に私達の望みを託しているのです。」とフックスは説明します。

そしてその望みは明らかです、原子力のない日本、原子力のない世界。

 
 と、このように苦労の連続のデモだったが、終わりよければすべてよし。このデモを通してまずノウハウを学んだし、活動メンバーを増やして、日本やパリにいる脱原発グループともネットワークが開通した。こうなったら正式に社団法人を結成して、次の活動に向かっていこうと、一同意欲を燃やしている。

 分かったことも多かった。ひとつには、民主主義の実現のためのハードルがとても低くなったということ。FacebookやTwitter、ブログその他のインターネットツールの威力を感じないではいられなかった。中東を席巻したジャスミン革命の現実味が私たちにもよくわかった。逆にいえば、この情報の時代、為政者が権力を保ち続けるのは、相当に難しいことではないか。フツーの庶民にも権力に勝つチャンスはあるという実感が増した。

 そう、本当にグローバルな時代なのだ。日本とドイツの間にまったく距離がなかったのも驚きだった。ネットを介して、日本とドイツでこの活動につながっていく人々がどんどん増えた。WANもきっと将来的にはその方向で役割を果たすことになるだろう。

 そして、それを可能にするのは、グローバルに共通なテーマの存在。脱原発は一国のことではない。環境の面でも、経済の面でも緊密に結ばれている世界の共通関心事である。私たちは、同じ日本人である駐在員よりも、Fukushimaの事故をきっかけに、早々と脱原発を決めたドイツの社会に暮らす日本人以外の人々との間に、はるかに大きなつながりを感じていた。ドイツ人からみれば、日本の原発は、まるで隣の家の問題のようであるに違いない。

 デモを思いついてから駆け抜けた4週間。ひまわりを見れば、この記憶がこれからもめぐってくるだろう、しんどいけれど自分の中にあったエネルギーを自覚した夏だった。

フックス 真理子(ドイツ在住): SAYONARA Genpatsu Duesseldorf

カテゴリー:脱原発に向けた動き

タグ:脱原発 / 原発 / フックス真理子 / ドイツ

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