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『私が、生きる肌』妻をさいせいしようとする外科医。妖気とエロスの映像美に浸る。上野千鶴子

2012.11.15 Thu

天才的な外科医、というと神か悪魔かのどちらかになりそうだ。こちらは悪魔になったケース。悪魔になるだけの理由が彼にはあった。自動車事故で全身火傷を負った妻に自殺され、残されたひとり娘にも強姦されたうえに自殺され、失意と絶望のなかに叩きおとされた。本人の細胞から完璧な皮膚を再生することさえできたら、妻に移植することもできたのに。そうすれば妻は死なずにすんだのに…狂気の医師はおそろしいアイディアを思いつく。

 ペドロ・アルモドバル監督の創造した悪夢に観客も引きこまれる。ハイテクと中世的なゴシック。先端医療と悪魔的な倒錯。いささか荒唐無稽な趣向についていけなければそれまでだが、設定を受けいれたら、あとは妖気とエロスに充ち満ちた映像美に溺れたらよい。

 他人のカラダを借りて亡くなった妻を再生しようとする現代のピグマリオン。その反対に、他人の皮膚の中に閉じ込められても私であることを失わない私がいる。浅田次郎の小説に、この世に思いを残した死者が他人のカラダを借りて7日間だけ現世を訪問するという設定があったっけ。SFのなかには、他人のカラダに脳だけ移植するという延命の方法もあった。他人の皮膚に閉じこめられた私が、旧知のひとに再会したとき…「私よ、私」という声はどれだけ届くだろうか。すっかり改造された「私」の再開シーンが見事。

 監視と幽閉の内に置かれた肉体は、平常心を保つためにヨガをし、読書をし、壁一面をアートにする。原作はフランスのミステリー作家ティエリー・ジョンケの「蜘蛛の微笑」。それに同じくフランスの彫刻家ルイーズ・ブルジョワの蜘蛛をかたどった作品、ママンが暗喩的に登場する。蜘蛛にからめとられたあわれな虫けらのような存在。同じように身体に幽閉された私。身体がボディスーツのように脱ぎ着できたら…外科医はジェンダーも越境させてしまう。衣装にはジャン=ポール・ゴルチエが参加。ファッションとは身体を模倣するということがよくわかる。究極のファッションとは皮膚そのものだろう。

 アルモドバルが監督した『トーク・トゥ・ハー』『オール・アバウト・マイ・マザー』とはずいぶん趣向が違うが、彼は異形の者にフェティシズムがありそうだ。そして自分の支配下に置かれた者に。だが、定石どおり、博士は自分が創りだした人造人間に復讐される。それがピグマリオンのような美女でもフランケンシュタインのような怪物でも同じ。神をもおそれぬ所業をなした者は、自分の作品によって滅びる運命にある。

初出掲載 クロワッサン プレミアム 2012年7月号 マガジンハウス社

カテゴリー:新作映画評・エッセイ

タグ:映画 / 上野千鶴子 / 女とアート