2009.09.17 Thu
インタビュー・構成 中嶋 泉
●はじめに
富山妙子さん。1921年生まれでいまなお作品を精力的に制作、発表している。活力の漲る声で周りを励まし、弱気な若い世代を鼓舞して「日本を変えましょう!」と言う。
富山さんの名や作品を知らない人がいたら、それは彼女がいわゆるアウトサイダーとしての立場を貫いてきたことによるだろう。戦後すぐの1950年代から富山さんの作品のテーマは、ある時は炭鉱であり、あるときは韓国の民主化運動であり、朝鮮人強制連行や慰安婦、戦時中の日本人の姿であり、都内のきらきらしたギャラリーではあまりお目にかかれそうもない。事実、「政治」と「美術」がときにヒステリックに区別されるこの国でそれは「政治的アート」のレッテルをはられることを意味し、彼女の作品はこれまで国内でよりもむしろソウルやベルリン、ニューヨークでその地の人々の共感を得、交流や理解を生み出してきた。つまり、ある場所ではアウトサイダーである彼女は、別の場所では人々の間に動きを起こすアーティストなのである。
そんな富山さんの作品をこれまでない規模で紹介する「アジアを抱いて窶舶x山妙子の全仕事展1950縲鰀2009」展が、今回の「大地の芸術祭」越後妻有トリエンナーレであるというので勇んで見に行った。この展覧会は、過疎化によって廃校となった小学校を会場に、各部屋(教室?)ごとに1950年代からの多彩な仕事が紹介されている。50年代の炭鉱の風景の油彩画、韓国民主化運動を描きだすリソグラフ、アジアの多様な文化の断片を集めたコラージュ、色鮮やかに描かれていながらよく見ると諧謔に満ちたイメージが展開する植民地の風景等々。それらを眺めれば、20世紀後半から21世紀への世界の歴史を通覧する振り返る思いがするし、創作上の方法や形式の変化がまた、社会政治とアートの関係について厳しく問うてきたアーティストの真剣さに満ちた遍歴を伝えていて興味深い。
今回インタビューをさせていただくことになった私は、美術史の勉強中の若輩者であり、富山さんとの年齢の差は半世紀以上もある。それでも富山さんの「若い世代と交流したい」という言葉に甘え、不勉強を承知で富山さんに話を伺い、彼女の持続力とパワーのもとと、長い年月の経験から蓄積された知を学びたいと思った。今回はその第一弾として、富山さんの活動の「始まり」と「今」の話を聞くことにした。
《 幻想・幻視》 1995年 油彩●植民地の生活から戦中の東京へ
過去数十年の画業を通じ、一貫して理不尽な権力を批判する姿勢を崩さない富山さんだがその原点は、少女期の植民地の経験にあるという。富山さんは1921年神戸郊外に生まれ、11歳の頃両親とともに満州へ渡り、大連を経てハルビンで暮らした。その頃はヨーロッパの近代絵画にあこがれる画家志望の少女だったが、日本人の中国人や朝鮮人に対する差別をその目で見てきた。1938年に帰国し、女子美術大学に入学して美学生となるが、戦局は悪化してゆく。アジア太平洋戦争が始まった年に結婚し、女の子を出産し、「玉音放送」は疎開先の長野の農村で聞いた。人々が一斉に戦争へ向かっていったなか、富山さんは満州、東京で何を考え、どのように過ごしてきたのか。
[i]富山(以下T):
私の場合はその植民地に居たということ、日常生活の中でいろいろ見てるわけね。日本の軍隊、関東軍の武力を背景に横暴な日本人と屈辱に耐える中国人や朝鮮人たちと。そこで差別を目にしたとき私が日本人の側にたってなかった。例えば、中国人(当時は支那呼ばれる)や朝鮮と言えば、文明開化に遅れたところ、植民地になってもしょうがないところ。進んだもの、美しいものは西洋で、日本人は子供のときから白人文化をモデルにしてきた。白人にあこがれた子供が読む本と言えばその頃だったら白雪姫だとかシンデレラで、西洋の童話の中で育つ。これは今もありますね。そこで私西洋へのあこがれがあるんですけれど、私の父がイギリス人の多国籍企業に勤めていたので、西洋崇拝の目ともう一方で「毛唐のやつが」(笑)という目があったわけです。そこで西洋近代の絵画と東洋と言われるアジアとか私の中での葛藤が始まるのです。
中嶋(以下N):
その当初から日本に対して批判的な視線を持っていらっしゃいますが、それは稀なことかと思います。これは意識しているだけではできないことなのでは。富山さんの神戸、ハルビンでの少女期の記憶は、西洋近代文化への憧憬と植民地主義への嫌悪感がない交ぜになった複雑なものですね。
T:
満州は関東軍の軍事政権でしたね。やだやだ日本人はって日本人を憎みつづけていたんですね。だけどそれは逆に西洋にあこがれていたから、それとの比較でなのね。満州に来た日本人というのをみていたら、中国人を奴隷視して酷使している。そういうのを日常見ていて、野蛮な日本人だなあと。
N:
しかしヨーロッパの人たちも差別がありましたよね。
T:
少女の私は満州だけしか見えていない。植民地での日本人の横暴さっていうのは誰の目にも見えるもので、そういう光景を見ながら胸が痛みました。私は神戸で育っているけれど神戸に居た白人はみんなエリートだから、白人も(差別を)やっているだろうけれど、見えないのね。植民地にいる支配者は現地人に対してものすごく酷い。植民地に育ったことが私の原点になるのですね。悩み始める。[/i]
植民地と内地とでは状況が違い、経験したものも違う。その後富山さんは1938年に美術大学に行くために東京に戻ってくる。太平洋戦争開戦直前の日本で画家を目指す女性として東京はどのような場所だったのか。この若い女性の思想を育んだ人々に、一世代前の知識人たちがいたらしい。
[i]T:
戦争中を、反戦というほど大げさなものではではないですけれど、戦争中地下水脈のように存在していた私より10歳ほど上の世代の、1920年代に青春をプロレタリア運動に費やして抵抗していた人たちに出会いました。その一部は京都ではじまる人民戦線や美学者中井正一(註1)さんの系列の人、それから音楽家の守田正義(註2)さん。彼はナップ(全日本無産者芸術連盟)っていうプロレタリア運動の中にいた人ですね。その人たちの影響を受けてきました。
N:
先日出版された自伝を拝読していて一つ新鮮だったのが、戦中にもほんの少しでしょうけれど、モダンアートや外国文化に触れる機会があったんですね。日本版バウハウスの学校に通われたとか、ヨーロッパの映画を見ていたりとか。
T:
開戦直前までね。例えばアメリカの映画で「スミス氏都に行く」(註3)っていうのがあるの。これなんかアメリカの良心のような、デモクラシーのお手本みたいな映画で、それを(開戦の)前の日までみてたんです。そしたら後で誰かと話していたら、その人も同じ時にみていた。官憲がカットしていたのはキスの場面とかでね、官憲が解らないものがずいぶんあるわけですよ。作品が全体を通して「自由自由」と言っているわけではないですし。カットの目の幼稚さで、検閲官の下っ端はわからない。上の方は東大出のエリートでね。言語もできるからシュルレアリズムの原書まで読んでみなチェックしている。そういう非常にアンバランスな状況でした。
当時の学生、美術学生は教養主義の影響で、文学、哲学を文庫で読んでいました。ただ問題なのはね、哲学を読み、各国の文学を読み、映画をみんな見ていてなお、それらの人たちが知らないのが「反戦」とか「レジスタンス」とかそういう考えだったんです。そういう思想はカットされているから。検閲で、例えば「×××は×××であり」という風に、「帝国主義は」というようなところはみんな消して「なんとかのなんとかは、×××で」っていうんだからもうクイズですよ(笑)。知識人といったって本当に一部ですけれどね、いたるところにいた。[/i]
レジスタンスの思想がないために、建設的な批判の場や術がなかったということなのだろうか。美術界ではこの時代多くのアーティストがこぞって戦争画を描き始めた。「戦争画」といっても、ピカソの《ゲルニカ》のような戦争の悲惨さを訴えようとするものではない。戦争を礼賛し、戦意高揚を目的としたプロパガンダで、宮本三郎(註4)の《山下・パーシバル両司令官会見図》(1942)や 藤田嗣治(註5)の《アッツ島玉砕》(1943)など見たことがある人もいるかもしれない。モダンアートに携わっていた「先輩」たちがこぞって戦争支持絵画を描いていることをどうみていたのだろうか。
[i]T:
もう日常ですよ。その時代は、一流画家とか二流画家とか階級的序列が付いている。軍のほうは名前がある画家をつかわなければ効果ないでしょ。戦争画を描くということは栄誉なわけで、お金も絵具ももらえて、もちろん軍の買い上げでしょ。マスコミにインタビューを受けたり、有名になっていくんです。80パーセントが迎合してゆくとはそういうことなんでしょう。
(画集をみながら)たとえばこの宮本三郎という人は画家としてそれまで「挿絵画家だ」というコンプレックスを持っていたの。そこへ陸軍報が描かないかという話しを持ってきたので、油絵で描いたところ一躍画壇の人なったわけですよ。戦争画によって名を挙げる。戦争画を描くことは恥ずかしいことではなくて名誉なことだったんですよ。横山大観が、国民精神総動員っていうのが出来て、画家の報国会(日本美術報国会)ができるでしょ。シュルレアリズムの団体「美術文化協会」の主唱者の福沢(一郎)さんが逮捕されたりして非国民扱いだったのが、小川原脩(註6)という画家、北海道の人なんだけど、その人の同郷の山内(一郎)大尉っていう陸軍報がきっと昔の友達で、「君も協力しろよ」とか言われたんでしょうね。彼が先頭にたって美術文化協会を戦争画にひっぱっていった。
藤田は、これは私の想像ですけれどね、パリでヨーロッパに気に入られるようにやってきたわけで、酷い目にもあったと思いますよ、アジア人としてもね。それで彼は帰りにメキシコ寄ってきたでしょ。メキシコの芸術運動を見てナショナリズムのはけ口をみたわけね。それで日本に帰ってきた後にパリのアーティストとして画商に買ってもらう生活から、パブリックな目が目覚めたんじゃないでしょうか。あの人はそういう意味で他の人と違うと思いますよ。[/i]
●戦後窶秤謇ニの活動を再開する。日本を考える。
都会で知識人に「育てられ」生活した富山さんの目には、戦中他の人に見えていないことも見えていたのかもしれない。それでも戦後待ち受けていたのは非常に苦しい生活だった。その間に戦争が、日本軍が実際に何をしてきたのかが徐々に明らかになっていく。美術界も大きく変わった。戦中政府に協力したアーティストたちも、解放されたかのごとく再び世界に目を向けて欧米に追いつこうとする。一方富山さんは1950年代、生活のために児童書の絵を描く仕事をしながら、鉱山とそこに働く人々に関心を持ち始め、自分の足で全国の鉱山を巡っていた。1950年代とは、戦後の深刻な燃料不足による増産、朝鮮戦争時のブーム、エネルギー革命による衰退と、日本の炭鉱が大きく揺れたときだった。社会の急激な変化に巻き込まれる炭鉱労働者の生活に、60年代の政治運動に連なるものが垣間見えたかもしれない。
[i]N:
富山さんが、画家としての出発に発表された作品が、鉱山のシリーズ【図1】ですね。戦後日本の画家の多くは国際美術への参加と進出に懸命になっていたようですが、富山さんはそのような中でも当時の抽象画の流行にはあまり関心を持たなかった。それまでずっと嫌だと感じていた「日本」の風土、風景を描こうとしたことにはどのような背景や想いがあったのでしょうか。
T:
植民地での体験と戦争体験で私の美術に対する考え方は変わり始めました。西洋中心だった美意識から私は「誰のため、何のために絵を描くのかー」を問い始めました。私は長野県に疎開したときに百姓をし、その農民の苦しみというのを知ったのね。私は全く都会っ子なんですが、そのとき田んぼを作ったりしました。田んぼの水が冷たくてあんまり耕せない高冷地区で山間の貧しい農村で、蚕飼いながら、息子たちは岡谷の味噌工場に出稼ぎに行って、本当に貧農。年寄りが守っていて、若者にはみな出征の赤紙が来て戦場へ行き、二人の息子が戦死した家もある。それから村人たちの強欲さも卑屈さも見たしね。むしろ日本の寒村で生きる人たちに共感の苦しみや哀しみを知ったんです。[/i]
●ハルビン女学校の級友との再会
炭鉱の絵でデビューした富山さんは、美術界では「異端」だったという。日本にいながら日本について考え、その地の社会状況について考えることは、「芸術」の世界では普通ではなかったのだ。しかし、富山さんは日本に閉じこもっていたしわけではなく、世界へ広く目を向けた。1961年に日本から南米へ向かう移民の船に乗って、沖縄、香港、シンガポール、インド洋を通り、南部アフリカをまわってブラジルへ向かう一年あまりの旅に出、この南半球を回る旅行で世界全体が見えてきたと言う。西洋とは黒人奴隷と先住民の酷使、血と涙の犠牲の上に成り立った文化ではないかと思われてきた。1960、70年代各地を旅し、西洋に対する批判的な気持ちが形を持って行くなかで、富山さんの画家人生では「二つのショック」あるいは転機となる経験があったという。そのはじめの一つは韓国への旅だ。1970年に富山さんは戦後初めて韓国へ行くことを決意し、そこでハルビン女学校時代の友人と再会する。
[i]N:
富山さんの制作活動の背景には、ご自分でいろいろなところに赴いて直接対話の場を築いてきたということがすごく大切だったのだと思います。とりわけソウルでのハルビンの女学校のご友人との再会は非常に重要だったと。
T:
初めて韓国行ったときは宗教哲学者の池明観(註7)氏の紹介で行きました。行く前に女学校のときの友達訪ねてみようと思って同窓会名簿は見ていったけれど、どこまで確かだかわからないし(会えるかどうかもわからなかった)。それでソウルで電話してみたんですね。すると、当時創氏改名しなかった友達の李さんが出て、「明日ホテルへ行きますから待っててください」って。それで彼女たち5人ぐらい連れだって来たんです。韓国料理を食べて女学校の昔話でもして、というくらいの予定の筈だった。それが私が深々と、「みなさんご苦労されて大変だったでしょう」って謝罪したんです。みんな顔見合わせた。あんまり意外なこと聞いたって。というのは、1945年に日本人が朝鮮から出て行くときに「おまえ等、いまにみてろ。取り戻しに来るからな」って言って引き上げたという。それから5年後、1950年には朝鮮戦争が始まりました。戦争処理を巡って対立していたアメリカとソビエトは朝鮮半島の内戦に介入し、九州の工場から飛び立つ米軍は連日朝鮮半島を爆撃した。その戦争特需で日本は戦後の不況を回復したといいます。ソウル在住のハルピン女学校の6人のクラスメイトたちは独立した韓国に引き揚げ結婚し、子供も生まれて、ようやくひといきついたところに朝鮮戦争が始まり、戦乱の中で家族を失い6人のうち、5人までが夫が行方不明になったと聞きました。日本の植民地化に対して私が謝罪したことで、日本人の口からそんなこと聞いたことないってみんなびっくりした。それで一緒になって朝鮮人の側にたって話しているうちに、「うちに来て泊まってくれないか」ってそのうちの一人が言い出したの。秋の夜でした。一人一人が身の上話を語るとみな一緒に涙を流し、肩さすりあう。それは朝鮮の民俗芸能パンソリ(「語り」の意)に思われた。哀しみを分かち合う、昔の共同体で育まれた女の世界なのでしょう。それから私は韓国に引き寄せられていったんです。日本人とは違う、深い哀しみがあったということを初めて知ったわけですよ。
N:
1950年代、朝鮮戦争特需で景気がよくなっていく中で、当時は朝鮮戦争の報道っていうのはなかったわけですか。旧植民地に対しては無関心であると。
T:
全くありませんよ。このとき(韓国に行った1970年代)日本は万博のときで、経済繁栄のスタートラインにたったときなんです。1970年代に入っても日本では韓国の状況は全く未知で、世界で一番近くて遠い国でした。知識人の間で多少知られているとしても、独立したから良いと思われているし、北朝鮮は輝ける新しい社会主義国として報道さていたけれど、南はアメリカの傀儡政権と思われている(当時は知識人の間では「南朝鮮」と呼ばれていました)。日本人の目がはじめて韓国に向かいだしたのは、金大中が拉致された頃からです。それと金芝河(後述されます)のことが知られるようになった1970年代。それまではアンタッチャブルな話題で、無関心でいるか、触れられない。旧植民地だからなお、なまじなことが言えないという状況もあったと思います。
N:
アジアの人々との出会いとして、個人的なことを申し上げると、私が初めて中国や韓国の人々と会ったのは、日本でも韓国でもなく、留学先だった1990年代のイギリスです。一番親しかった韓国系アメリカ人の女の子は、おばあさまの話をしてくれました。日本語をしゃべって、日本人を心底嫌い、神道を信じているという。私は混乱し、その友人はあきれていました。情けない話ではありますが、そういう場面は今思うと「出会い」というより「出会い損ね」であって、今考えてもすごく恥ずかしかったと感じています。そのときに多少なりともつながりをもたらしてくれたものの一つにフェミニズムの思想があったと思っています。
富山さんがハルビンのご友人と、戦争の加害者側と被害者側という立場の別があっても通いあうものがあった。日本人の立場がそれを難しくさせるということがなかったのでしょうか。女性同士の連帯意識というものがそのとき感じられたのでしょうか。
T:
70年代はまだフェミニズムがないですよ。ないけれど見えてくるのは、私がソウルに行った70年代当時は日本から買春ツアーの男たちが押し寄せていた時代です。ソウルに行く飛行機っていったら90パーセントが男で占められ、女の人は乗っておらず、日本の大手の旅行会社が(もちろん「買春観光」と銘打ってはいないですけれど)そうした男たちを韓国へ年間50万人連れて行っていたといいます。当時韓国の軍事政権にとってその性産業は、朝鮮戦争後の貧困を回復する一つの貧しい解決策にもなっていて、韓国政府は奨励はしないけれども、「夜10時以降もであるいてよろしい」とかあらゆる特権を与える。こうした状況はソウルだけじゃなくて、日本企業が進出し始めたのと同時に台北、マニラにもありました。そして、1970年代のはじめにソウルの梨花女子大の有志たちが金浦空港で買春観光反対のデモをしたんですね。それを受けて日本キリスト教団の女の人たちが、羽田で買春観光反対のビラを撒いたのね。そのようななかで松井やより(註8)さんと出会って、「アジアの女たちの会」が立ち上がってゆきました。あちこちで女たちが怒っていました。[/i]
●巫女としてー「パンソリ」とアート
韓国での級友との出会いは、富山さんにとって韓国の文化との出会いでもあった。西洋美術的な価値観が支配する日本の美術状況に疑問を抱いていた彼女が、アジアの芸術と政治の間に接点を最初に見いだしたのは、おそらくこのときである。それは「巫女」、「シャーマン」への関心に連なっていく。
[i]T:
このときが、韓国人、朝鮮人から身の上話を聞いた初めての機会だったのです。身の上話は韓国で「身世打鈴 (シンセターリョン)」と呼びます。「語り」のことは「パンソリ」と呼び、これは一つの芸能だと言えます。韓国も身分社会で、両班(ヤンバン)と一般農民の差別があり、そこでさらに女が差別される。その哀しみ苦しみ、特に女性のそれを聞く民衆的な存在として巫女(ムダン)がいました。積もってゆく解くことができないような哀しみを「恨(ハン)」と呼び、ハンの人はムダンに相談に行き、ムダンは場合によって死者との対話の間を取り持って恨を解く「恨振(ハンブリ)」を行います。このような習慣が民衆の中に伝承芸能として続き、一つの芸能、一つの「アート」になっていく。アートの役割の中にはこういうものがあると思うのです。私は、70年代のフェミニズムのなかで韓国のことを考えながら、私が巫女になってその役割をしようと思った。それで絵の中にシャーマニズムを入れ、自称「巫女」としてきたんです。
N:
アーティストが巫女になるということは、画家の特権的な立場にはならないのでしょうか。巫女とはどういう立場だと考えることができるのでしょう。
T:巫女にも色々いて、上の方は権力を持っているけれど、女性のシャーマンは下のほうに位置づけられています。その頃の私は、フェミニズムアートと言われても、男のアートばかりで育ってきたからどうしたらいいかわからない。そのとき韓国をテーマにしたことから、自分が巫女となるという「設定」を自分で作ったんです。日本人としてだと、「敵」になるので語ってもらえない。そうするとおわびばかりすることになって、対等な語りの場面にならない。そこで巫女という立場を設定することで、どこにでも行けるし、人々の話も聞けるし、様々なものを絵の中に「呼び出す」ことができると。女学校のクラスメイトと輪になって語り合い、聞き手としての巫女、シャーマンはなぜ存在するんだろうと考え出して、韓国文化のことを色々調べているうちに、そう考えるようになりました。[/i]
富山さんにとって、韓国の友人との出会いは一つの転換になった。また「巫女」との出会いは、その後彼女が強制連行された朝鮮人労働者や日本軍従軍慰安婦の問題に挑戦したときに重要な役割を果たす。「巫女」とそれらの作品について聞くのは次の機会を待つことにして、今は「第二のショック」となった1970年代のことを聞いてみよう。
左《 天駆ける者・馬王堆による》1984年 油彩
右《 地の底の恨》1984年 油彩、「天」と「地」を成す対になる作品。
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