2013.06.25 Tue
社会人になり寮生活を送る息子と郷里の母を見舞う。
彼が私の実家のあった新居浜市のK産院で生まれたのは1986年冬。文部省給費留学生として渡仏する夫と共に1984年10月から86年6月までパリに滞在し、パリ第三大学で修士号を取得した後、帰国し、半年経った頃だった。当時夫はまだ大学院生。大學でフランス語教師のポストを得るには仏政府給費留学生(通称ブルシエ)として留学することが必須とされていた時代のこと、息子が九か月の時、夫はブルシエとして再びパリへ。私はといえば、生活費を担うべく当時始まったばかりの専門職派遣社員として都内の某レコード会社洋楽部門に翻訳者として登録し、働き始めた。私に代わり、日中、息子の世話を引き受けてくれたのは、息子の出産を機に郷里の家を売り、同居を決めた母だった。当時私たち4人家族が住んでいたのは埼玉・三郷市の新築公団。帰国後、通りで偶然入居募集の葉書を手にして、ためしに応募して当選した4LDKだった。公団仕様の広い廊下のおかげで息子はハイハイが得意に。が、三郷から青山まで往復3時間の通勤は子育とはまるで両立不能。保育園に入れること等、当時は思いつきもせず、やむをえないながらも日中の家事・育児は母に任せる日々がほぼ半年続いた。私は30代になったばかり、母もまだ50代そこそこだった。思えば本当に若くして母となり、祖母となった母だった。
春になり、留学中に地方国立大学のフランス語教師のポストを得て帰国した夫と、4人で静岡に移り住んだ。大學側の要請で同居が求められたために、私もやむなく仕事をやめた。派遣の仕事は惜しくはなかったが、合間に続けていた映画の仕事から離れるのが身をきられるように辛かった。そんな中、間に合わせのように借りた駅近のマンションの一室で、フルに一才数か月の息子と向き合うこととなり、次第にブルーに。思えば、仕事を失ったことでアイデンティティ・クライシスに陥ったのだろう。トータルに妻・母として生きることは無理だった。
息子との母子関係が安定したのは、緑豊かな大学宿舎に移り、静かで安定した環境の中で、映画の字幕翻訳の仕事を始めるようになってからだ。宅急便とファックスを駆使して、時折間に合わせのように発注のくる国際映画祭向けの字幕の仕事を引き受けた。子どもの友人関係も安定し、大学院で専門の勉強を続けたり、ピアノや声楽を専門としたり、元小学校教員だったりする真面目な努力家の同世代の母親同士の交流は心楽しく、子育てにも教えられることが多く、毎日が生活学校のようだった。やがて娘が生まれ、出産時にお世話になった助産婦さんの生き方を聞き書きしてまとめた本が取り上げられたことがきっかけとなり、新聞・ラジオに仕事の幅も広がった。母もその間、呉服の知識を生かし、駅近のTホテル内の高級呉服店に勤務していた。二人の子どもは自然豊かな外遊びをモットーとする保育園でのびのび育った。母も私も、夫の仕事の都合で縁もゆかりもない土地に引っ越しながら、互いに好きな道を生かし、ワーク・ライフ・バランスのとれた生き方ができていたと思う。地方暮らしの良さが十分味わえた日々だった。ただ、土日勤務で帰宅も毎日午後7時を過ぎる母と、子育て真っ盛り期の私との間に、気持ちのすれ違いが生じ始めていたのも事実。(母の死後、遺された日記代わりの手帖を見ると、本当に仕事に打ち込んでいたことがわかるのだが、当時は、まるで下宿生活のような生活を続ける母の態度に不満を抱いていたのだった)。それでもバランスが保たれていたのは、互いに好きな仕事があってこそだったろう。
けれど、夫が東京の大学に移るのを機に、再び、ワークライフバランスが崩れた。 映画の仕事は不定期であてにできないため、突破口を求めて、大學に学士入学しては子育てとのはざまで挫折したり、大学院に再チャレンジしたり。40代でさらにもがき続けたのだ。挫折するたび、結局は、母に助けられた。母もまた、本音をいえば娘を助けるよりは仕事を続けたい人であったために、なくなく静岡での仕事をやめたのだったが。私よりは、あきらめることに慣れていたのだろうか。静岡を去る前にいろいろ葛藤はあったものの、最後は埼玉の官舎での同居を決めた。1年半後、夫の勤務先の大学に近いというだけで決めた今の地域に家を建て引っ越してからは、元来が働き者ゆえにすさまじい働きぶりで家事全般を引き受けてくれた。それが、やがてそれまでの経緯をまったく知らぬ周囲の女性たちの誤解を招くことになるだろうことは、私も母も当時は予想もしていないことだった。フェミニズムを志しながら、日常的に関わる女性たちとの乖離・断絶に苦しむことになるとは、俗世間に疎く、脇が甘かったことといわねばならない。それもこれも、しかし、思えば映画に関わる仕事を求め続け、大学院で学び学び直し、論文や映画評を書くという行為にとりつかれている自分をうまく周囲に説明できないからであった。自己表象の問題が常について回り、そこに家事負担の問題が絡んできたのだった。
いくつもの「わらじを履きかえる」生活を続ける内、ふとしたきっかけで、周囲の反感のようなものに気づくことが増えたのは、4年くらい経った頃だろうか。しかし、それもまだ大したことではなかったのだ。それから、予想もしない近隣トラブルに見舞われた。日中から外に出てテーブルをだし、酒を飲み、道行く女性に声をかける男がすぐ隣に出現したのだ。男は母親を亡くしてまもなかった。半年か一年か、そんなことが目の前で続き、息抜きだった花の世話もできなくなり、神経がやられ始めた。娘の登下校も気になり始めた。それでも、まだなんとかやっていけたのは、息子の高校受験や娘の卒業式を、無事、仕上げたいという思いからだった。祖母が亡くなったという知らせを受けて帰郷した母には、そのまま叔母の家にい続けてもらった。家事・育児をこなしつつ仕事も続け、大事な時期を母の手を借りることなく、仕上げたかったからだ。フェミニスト的潔癖症といえばいいのか、ひとり相撲といえばいいのか、わからない。私なりの、けじめのつけ方のつもりだった。
それが、なぜかさまざまな憶測を呼び、思わぬ誤解を産むことになった。そして、なんとも説明のしようもないドラマが私と母の間に生じたのだ。その出来事については、まだうまく書くことができないでいるし、これからもきっと難しいだろう。ともあれ、おそるべき偶然から、トラウマ的な出来事がおきてしまい、私は母を決定的に拒否してしまったのだった。ストレス続きの数か月さえなければ、そうした事態には到らなかっただろうに。
そして母は郷里に再び戻った。 私はといえば、母の着物と仏壇を送り出した後、声が出なくなり、急激に鬱状態に陥った。起き上がれず、臥せったままの数か月、唯一慰めになったのが、戻ってきてもらった母に時折背中をさすってもらうことだったのは、なんと甘えたことだったろうか。とはいえ、同時に、なんとか立ち直った後、母が郷里に戻った翌日から、なぜか体が軽くなったのも事実だったのだが。それから再び博士論文にとりかかり、仕上げ、仕事も再開し、やがて気がつけば10年の年月が流れていた。10年も経ったんじゃねえ・・・入院を機に過ぎた年月の長さに互いに驚き、互いに憮然としたものだ。
息子の人生に関わる、そんな私と母の経験を、私の郷里(愛媛)で生まれた彼にいつかなんとか伝えたい――と思っているのだが、果たしてうまく伝えられる日がくるだろうか。女たちがいまだ排除され続ける男社会で今後も生きていく彼に、女性のライフステージに対する共感的視点をもってほしいと心から願っているのだ。
いや、これまで何かと励まし続けてくれた彼なら、すでに十分その資質を備えているとは思うのだが。暗闇で臥せっている時がもっとも心安らぐような時期にあった私の傍らにきて、彼はよく好きなスポーツ選手がどうやって怪我やスランプから立ち直ったか、面白おかしく話をしてくれたものだ。彼なら、話せばわかってくれるだろう。
とはいえ、話そうとするとどこから始めてよいかわからず、なんともこんがらがってしまう。
まったく家族の話というのはどこが始まりで終わりだか、わからない。ここに、彼がこの世に誕生する前に亡くなった父の話が絡んでくるのだ。 これでは、まるで母と私だけの物語として事態は進行してしまっているではないか。夫と私のパートナーシップの問題も無論関わってくるだろう。
ともあれ、まずは、母と息子と三人で昔話をあれこれできるといい。そして病身の母には大きくなった息子とゆっくり話すことで、初めて男の子を育てた充実感を思い出してもらいたい。
このエッセイは2012年6月25日(火曜付け)愛媛新聞コラム 「四季録」(下記)に掲載されたものに、2015年5月、大幅、加筆修正を施したものです。手術に希望をつないだのに術後亡くなり、茫然とした日々が続きましたが、3回忌を終え、(これでも)少しは冷静に過去を振り返り、語ることができるようになりました。パランセプトのように記憶を上書きしていきます。
転載許可番号 G20121201-01032
カテゴリー:新作映画評・エッセイ / 映画を語る
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