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7月のシネエッセイ 「ここではないどこかへ」 川口恵子

2013.07.03 Wed

 

映画はいつも人を「ここではないどこか」へ連れてってくれる。その楽しみを私は母から学んだ。20歳で戦前からの大地主の旧家に次男の嫁として嫁いだ母は、長男家族が家を建ててもらい独立したため、大家族の食事の支度をしながら証券会社勤務も続けていた。小学校教員を続けた祖母の影響か、母方の女性は(父方のおばたちとは異なり)、働くこと自体に生きがいを見出すタイプだ。苦労したとは思うが、若さゆえに快活でいつも楽しそうに語ってくれたのが学生時代に見た映画の話だった。

アマゾンのサーバでエラーが起こっているかもしれません。一度ページを再読み込みしてみてください. 戦後スター石原裕次郎が登場した時の驚き。ゲーリー・クーパーのかっこよさ。母の語る映画の話は、そこだけ輝く夢の世界だった。

 昭和12年生まれの母が多感な思春期を送った1950年代前半は、アメリカ映画が最も輝き、戦後日本がその一大受け皿となっていった時期だ。新産業都市で住友王国といわれた新居浜は文化的にも活気に満ちていたことだろう。

 パパと初めて会ったのは高校卒業後の花火大会の夜。花火が終わって、友達とこれからどうする?ダンス行こう!って話になって、住友関係の人が集まる菊本の社交ダンスに行ったのよ。ダンス部だったから一生懸命ステップについていって、誰と踊ったかもわからなかったけど、あとからあれはTさんのお兄さんと聞かされた―母は問わず語りに入院先の病室で話してくれた。

 退院したらどこに行ってみたい?5月下旬、病が発覚し急きょ入院した当初、母に尋ねたことがある。

 宮崎の高千穂じゃねえ。昔パパと車で行きかけたんよ。山の上のほうに明かりが見えたからひょっとしてあそこまで行くん?恵子に何にも言ってきてないのに。やめとこうよ、パパ。

 私が東京の大学に進学したあとか、仕事を始めていた頃の出来事だったのか、何十年も前の出来事を昨日のことのように情景描写する。

 天の岩戸で伝説で有名で、夜神楽があってねえ。11月にあるみたいだから退院したら一緒に行こう、と私。そうして秋まで希望をつないだのだ。

 6月27日、手術室に向かう母を見送る時、片頬ずつ3回ハグをした。思いのほか早く病室に母を呼びにきた看護婦さんや、母の妹がすぐそばにいたために、何もいうことができなかったが、照れ隠しにフランス式というと、3回目に頬を傾けてくれた。小さい頃よくそうしていたことを、その時、思い出した。ずっとこうしていたいね、と私たち母娘はよくひっつきあっていたのだ。大きな屋敷の一角で。

 術後二日目より昏睡状態に陥った母は、7月3日、永遠に、ここではないどこかへ旅立っていった。かすかに頬が触れ合った感触が今も忘れられない。

 「帰ってきてね」と、私はその時、ようやく母の耳元で言えたのだ。手術室のある方向に歩いていき、振り返ると、母は笑って手をあげてくれた。その姿を目にやきつけられたことが今ではずいぶん心の救いとなっている。

◆初出:2012年07月17日(火)付「[四季録]ここではないどこかへ」(加筆修正しています)

 転載番号G20121201-01031

ここではないどこかへ








カテゴリー:新作映画評・エッセイ

タグ:くらし・生活 / シネエッセイ、女と映画、母と娘、川口恵子