2013.09.01 Sun
イタリアの、ある小さな教会堂が取り壊されるところから、映画は始まる。半世紀もの間、人々に対し神の愛を説いてきた司祭だったが、ついに、この教会堂は不要のものとされたのだ。
重機が戦車のように押し入ってきて、祭壇に掲げられてきた磔のキリスト像に、鉄の鉤が掛けられる。キリスト像は、くるくると回転しながら、降ろされていく。傷ましい表情のキリスト像が死んだ魚のようにぶらさがっている様子は、神を葬った現代社会を描く絵画のようだ。老司祭は、ただ駆除されるネズミのようにうろたえながら「主よ、憐れみ給え」と祈るばかりだ。そして、聖像も聖画も取り外され、空っぽになった教会堂と、用済みになった老司祭が取り残される。教会堂は殺された。キリストは殺されたのだ。
その死のさなかに、突然、鐘の音が鳴り渡る。復活の鐘だ。管理人が恐怖の表情を浮かべて、慌ててブレーカーを落としに走る。そして、「終わり」の、その先の物語が始まる。
その夜のうちに、空っぽだった教会堂は人に満ちた。老司祭は翌朝、教会堂の中に立ち並ぶ粗末な天幕を目にする。行く当てのない人々が、逃げ込んできたのだ。彼らの多くが、アフリカからの難民であり、不法入国者だ。
少女の面影が残るミリアムは、産気づいている。そんな彼女に手を差し伸べたのは、娼婦のマグダだ。彼女は赤の他人であるミリアムのために、自分のコートを脱いでかけてやる。寝床をつくり、ロウソクを集めて、産湯を沸かす。
教会堂の物置で、ひそかに産み落とされたこの赤ん坊を見て、老司祭はクリスマス聖歌を歌い涙ぐむ。最も感動的な場面だ。粗末な馬屋での、幼子の誕生だった。死んだはずの教会堂で、聖書の物語が展開されていく。
理不尽な法は、2000年前も今も人間社会に存在してきた。特に女性は、男のつくった法によって、さらにその下に貶められてきた。だが、いつの時代も、その理不尽さに対し「神の法」を説く者が立ち現れる。イエスや、司祭や、マグダだ。
赤ん坊を取り上げたマグダは、ある女性にナイフを手渡され、赤ん坊を殺すよう迫られる。このシーンで印象的なのは、男ではなく女が赤ん坊を殺せと言うことだ。男が自分の手を汚すことはない。男の法に支配された女が、同じ女同士で縛りあおうとするのである。その女性は「彼女の出産は罪」と言う。だが、マグダは「それは神の法ではないわ。あんたと仲間の法」「毎晩、私はこの町の通りに立つ。あんたの仲間の男たちは、昼間は恥ずかしいからと、夜来る。でも神の法は変わらない。昼でも夜でも…」とはねつける。
イエス・キリストの言葉を説いてきた司祭は、教会堂の死とともに、沈黙しそうになっていた。しかし、逃げ込んできた旅人を追ってきた保安隊と対峙した時、言葉は蘇る。老司祭は、傘を振り上げ保安隊長に殴りかかりながら「主なる神は言われる。弱き者を武力で迫害する者よ。悔い改めよ」と叫ぶ。
タル・ベーラ監督の『ニーチェの馬』は、世界が終わる最後の七日間を描いた。大風が吹き荒れ、少しずつ終わりが近づいても、ただ日常を繰り返すしかない父娘の姿は、ほころびと崩壊から目をそらして生きる私たちの姿を暗示していた。
エルマンノ・オルミ監督は、その「終わり」の先を描いた。光が消えた暗闇でこそ見える、本当の光を見せようとした。赤ん坊を殺すように迫る者や、保安隊長を退かせたのは、彼ら自身の心の隅にある善意だ。善意は光だ。マグダや老司祭の善意と確信に満ちた気迫が、相手の心に隙間をあけ、善意を、一瞬だけ引き摺り出したのだ。その一瞬一瞬を紡いでみせた、甘くない、美しい映画だ。
・8月17日~10月4日岩波ホールにて好評公開中(東京・神保町)他、全国順次ロードショー
・映画公式サイトはこちら
・岩波ホールのサイトはこちら
『楽園からの旅人』
(エルマンノ・オルミ監督/2011年/87分/イタリア映画/原題:Il villaggio di cartone/日本語字幕:吉岡芳子)
スチル:© COPYRIGHT 2011 Cinemaundici
配給:アルシネテラン
(日本女子大学文学部4年 是恒香琳)
カテゴリー:新作映画評・エッセイ
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