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『マイ・マザー』〈母殺し〉が象徴的に遂行される時  川口恵子

2013.12.01 Sun

「僕は母を殺した」―残酷で悲痛な作家宣言

 main_sマイ・マザー無名の青年が17才で書いた自伝的短編Le Matricide(母殺し)を元に脚本・監督・主演を務めた本作は運よくプロデューサーの眼にとまり2009年カンヌ国際映画祭監督週間でいくつかの賞を最年少で受賞した。今や日本でも新作が続々公開されている期待の新人監督のデビュー作である。青年の名はグザヴィエ・ドラン。カナダのフランス語圏ケベック州出身の一青年が、停滞気味の世界の映画界に新風をもたらした。

主人公は監督の分身ユベール・ミネリ。17才の高校生だ。プライドの高い芸術志向者でゲイでもある彼は、ボーイフレンドと絵を描く時間をことのほか愛し、その時だけ素晴らしい生の輝きを放つが、シングルマザーである母親との現実の生活には嫌気がさしている。中年女特有の俗っぽさに我慢ならない様子だ。だったら家を出て自活の道を歩み出せばいいのだが、それもかなわず苛立ちは募るばかり。生活面では母親に依存しつつ、目の前の母親に否定的感情を抱く。どこにでもありそうな話といえなくもないが、監督はとことん息子目線から母親との関係に苦悩する青年を描き、自らその青年役を熱演する。一方、母親役の女優は彼女自身の大人の女性たる存在感とでもいうべきもので、抗う息子に対峙する。その三者関係がうまく作用し独自の緊張感を生み出す時もあれば、監督/主人公の稚拙なナルシズムを浮き彫りにするだけの時もある。意外に思えたのは、ボーイフレンドや自分の母親世代の描き方にユーモアが感じられる点だ。特に、ラスト近く、寄宿学校の校長らしき人物からの嫌味な電話にぶちきれた母親が「あなたにわかる?10何年間、毎朝5時におきて(5時半だったか!)~」と思い切り言い返す長台詞には笑えた。試写室につめかけていたマスコミ関係者らしき若者たちには笑いはおきていなかったが、夫の力をあてにせず(できず)息子を育てた経験をもつ女性観客ならここは笑いどころだろう。

sub3_sマイ・マザーとはいえ、みどころはやはり青年の苦悩する姿だ。寄宿学校に転校させられたユベールが酒の勢いを借りて家に戻り、愛憎半ばする気持ちを母親に訴える場面が目をひく。思春期特有の身勝手さ、傲慢、無力、稚拙な思い込みがあるにせよ、ここには確かに父なき環境で育った者に残された唯一の肉親との関係に苦しみ、その「支配的」影響力から逃れようともがく若者が存在している。

その若者は、繰り返しになるが、映画の主人公ユベールであると共に、この物語を自作自演する若きグザヴィエ監督自身である。青年監督は、自らの生の現実を見つめ、その根底に潜む問題を物語化し、「演じる」ことと「演出する」ことの両方を通して、何かに到達しようとしている――

しかし、どこへ向かって、何に到達しようとしているのか?

ラスト近く、寮を脱出した主人公は、彼が<王国>と呼ぶ海辺のアトリエに向かう。どうやらそこは彼にとって幸福な幼年時代を象徴する場所らしい。映画は、その時、それまでのセルフ・ドキュメンタリー調から、きわめて詩的でファンタジックな世界へと切り替わる。〈幼年時代の記憶〉―若く美しかった母と幼い彼が幸せに暮らしている―と〈現在〉が奇妙に溶け合った幻想的シークエンスが続くのだ。〈現実〉と〈非現実〉の狭間にある〈詩的領域〉に彼は辿りつこうとしているのか?

sub2_sマイ・マザー自分探しの物語か、成長物語か問われ、ドラン監督はこんな風に答えている。主人公はすでに「自分が何者」か、「どこに立っているか」を理解している。だからこそ自分と母親が「決して交わることのない平行線」上にいることを自覚し、その「とてつもない距離」に狼狽しているのだと。

現実生活から抜け出し、心の底では愛し愛されたいと願っている母親を自身の〈王国〉=〈芸術の領域〉から排除する。その時〈母殺し〉が象徴的に遂行される。しかし、そうすることでしか、もはや自分が自分らしく生きる道はない――原作を書き終えた時、まだどこにも世界に居場所を見つけていなかった青年は、そう自覚したのではないか。〈母殺し〉という原作の題にはそんな青年の悲壮な覚悟が感じられる。

では、映画版の原題「僕は母を殺した」はどうか? 私は、そこに芸術の道を歩み始めた青年の作家宣言を見出した。残酷で悲痛だが甘ったるいヒロイズムはない。自身の世界で生きることを選んだ者の覚醒した意識の広がりだけがある感じだ。ラストで、海辺に向かい彼方を見つめる青年の眼に映る光景はどのようなものだろう? それを観客が目にすることはない。観客が目にするのは、海を見つめる一人の青年芸術家の姿と、彼を見つけ、隣に座り、彼の肩にゆっくり静かに頭をもたせかける母親の姿だ。ようやく和解の時が訪れたかのごときその映像は、しかし、ドラン監督にとってはもはや〈母殺し〉を遂行したあとの、オマージュにすぎなかろう。

しかし、ドラン監督はきっとやがて再び<母>と向き合うことになるだろう。母親そのものではないにしても、〈自身の内部に住みついた母〉と向き合うことになるだろう。いくつかの秀逸な女性描写がそれを予感させる。その日が待ち遠しい。

(2009/カナダ/カラー・白黒/100分/1:1.85/フランス語・日本語字幕/原題:J’ai tué ma mère 英題:I Killed My Mother)

 11月9日より、渋谷アップリンク他全国順次ロードショー!

配給:ピクチャーズデプト  提供:鈍牛倶楽部

公式HPはこちら

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カテゴリー:新作映画評・エッセイ

タグ:LGBT / 川口恵子 / 母と息子 / グザヴィエ・ドラン