エッセイ

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発達障害の子どもに勉強はいらない!?  秋月ななみ

2014.09.22 Mon

                  発達障害かもしれない子どもと育つということ。22

 

発達障害チェックシートできました―がっこうのまいにちをゆらす・ずらす・つくる

著者/訳者:すぎむら なおみ 「しーとん」

出版社:生活書院( 2010-02 )

定価:¥ 2,160

Amazon価格:¥ 2,160

単行本 ( ページ )

ISBN-10 : 4903690504

ISBN-13 : 9784903690506

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生徒にとって、重要なこと。そして教員が、みおとしがちなこと。それは「授業がわかること」だと、あらためておもう。その「授業がわかる」とは、実際は「授業中になにをすればいいのかわかること」、つまり先生がなにをつたえようとしているのか、周囲の生徒がなにをしているのか、いま自分のすべきことがなんなのかがわかること、つまり「教室の一員だ」「自分の居場所がここにある」とかんじられることではないのだろうか(『発達障害チェックシートできました‐がっこうのまいにちをゆらす・ずらす・つくる』159-160ページ)。

 

「授業がわかる」ことが重要だということを、学校の教員が見落としがち? 子どもが小学校に行っていなければ、まったく理解できなかっただろうと思う。そう。小学校で重要なのは、勉強ではないらしいのだ。子どもに勉強をさせる環境を整えるために、これほどまでの忍耐強い折衝が必要だとは思わなかった。

 

授業参観で見たところ、うちの子どもはまったく勉強についていけていなかった。いや、授業の習う内容自体はできている。しかし先生の指示が、まったく聞けていないのだ。

 

先生はいろいろな指示を――「これをノートに書きなさい」とか、「計算しなさい」とか、「次も同じようにやりなさいとか」――、全部口頭でだしている。娘はなにを聞けばいいのかがまったくわかっていなかった。他の子たちは、先生の指示には従っているけれど、計算式が「3+5=7」などと間違っている。

 

うちの子は、なにをやっていいのかわからず、黒板に書かれた問題を写しては、「それは写さなくていいから」と先生にいわれている。ぼーっとしては、「さっさと下敷き出して」と指示される。見よう見まねでなんとかノートに書くものは、先生の指示とは全然違う。なにをしていいのかわからないから、困ったように机に突っ伏したり、気持ちを落ち着けるために鉛筆削りで鉛筆を延々と削りだしたりして、先生に取りあげられる。そして私の顔を見つけると、「あっ」という感じで廊下に飛び出してきて、ぎゅっと抱きついてから、心を落ち着けてすぐに席に戻っていった。ノートであっているのは、「3+5=8」という計算式だけである。

 

行政のセンターを介して、支援員をつけたほうがいいんじゃないか、という話になった。授業のことだけではなく、さまざま気になる出来事が勃発していたので、私も是非にと頼みたいと思った。しかし学校側はなかなか首を縦に振らないのである。

 

「ひとりだけ支援員がつくと、目立っていじめとかが気になりませんか?」といわれる。確かに気になる。それは先生がつねにつねに授業中に注意を与え続けることで、教室で娘が馬鹿にされ始めているんじゃないかということのほうだ。すでに兆候がある。それならば支援員がつくほうが、ずっといい。

 

「娘は文章題とかができなくて。このままではすぐに落ちこぼれてしまうのも、目に見えているのです。それも心配です」というと、「お母さん。文章題とか、やらせなきゃいいじゃないですか」といわれてびっくりする。計算とか暗記とかで乗り切れるのは小学校の低学年のうちだけで、論理的な思考ができなければ、そのあとは勉強に落ちこぼれてしまう。そもそもそのうち、問題は文章題ばかりになるはすである。

 

「勉強なんて、どうでもいいじゃないですか。学校で楽しく過ごせるのが、一番ですよ」。そういわれて、クラクラした。勉強ができなきゃ、学校で楽しく過ごすことなんてできないじゃないか。学校は、仲良しクラブだったのか。

 

もちろん、集団でなければ身につけられない社会性はある。それを重要だと思っている。でも、勉強ができなければ自尊心も身につかないし、将来自立もできない。こういう子だからこそ、勉強ぐらいはきちんとさせたいのだ。なによりも指示のわからない授業で苦痛なまま机に座り続けていないといけない娘の気持ちを考えると、可哀想ではないか。

 

「立ち歩きをして、授業中に外に行ってしまう子どもさんなら、先生が追いかけていくわけにはいかないから、支援員さんは必要ですよ。でも座ってられるのだからいらないのでは?」と管理職。

 

「授業参観の日は、ひとが多くて落ち着かなかったからああでしたけど、いつもはちゃんとできてますよ。まぁ最後のほうは崩れて、お母さんのところに行っちゃったりしちゃいましたけど」と先生。

 

学校側の「ちゃんとできる」と、こちらの「ちゃんとできる」の意味の違いに、これまたクラクラとする。学校側は教室経営がつつがなく進行することが、「ちゃんとできる」ということなのだ。私の「ちゃんとできる」は、娘が授業を理解して、安心して教室にいられることなのだ。

 

娘が私のところに飛んできたとき、「そうやって自分なりに気持ちを落ち着けて、机に戻れたのだからよかった。それで勉強が『できるようになれば』」と私は思った。でも先生からすると、「教室の秩序を乱された。それまではなんとか『できていた』のに」ということなのだろう。

 

確かに娘のクラスにはすでに立ち歩きをする子がいたので、小さな崩れも気になるのだろう。そこから全体へと広がりかねない。その事情は、わかるのだが。

 

とりあえず心理テストの結果次第といわれたのだが、娘はテストで、「社会性」はものすごく高かった。そりゃそうだろう。親にあれだけソーシャルスキルトレーニングの本ばかり与えられていたら。机上の知識としては、バッチリである。ただそれって、全然実行できていないのだが。

 

こうした「特性」すら数値化されないと通らないのだろうか…。最近は発達障害の「医療化」になんともいえない居心地の悪さを覚える。

 

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シリーズ「発達障害かもしれない子どもと育つということ。」は、毎月15日にアップ予定です。

 

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カテゴリー:発達障害かも知れない子供と育つということ / 連続エッセイ

タグ:発達障害 / 子育て・教育 / 秋月ななみ