エッセイ

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どうせわかってもらえないよね 秋月ななみ

2014.10.17 Fri

                 発達障害の子どもと育つということ。23

 「どうせいってもわかってもらえない」から――そう内心思いながら、表面上相手がちょっと得意げにまくしたてる持論を気にしないようにやり過ごす、そういう瞬間は、子どもが小学校にあがってから、格段に増えてきている。正直なことをいうと、内心は苛立たしい気持ちでいっぱいではある。しかしなんというか、「どうせいってもわかってもらえない」としかいいようがない状況なのである。

多くの人に分け持たれている信念に、以下のようなものがある。

子どもは親の育て方次第。
愛情をいっぱいかければ子どもの情緒は安定する。
なにか問題が起こるとすれば、親の育て方の問題(愛情不足)が潜んでいる。
問題を「引き起こす子」は、親や教師の関心をひきたいから。
重要なのはスキンシップ。
お稽古事は親の見栄。
子どもは子どもらしく、のびのびと遊んでいるときが一番幸せ。
型にはめる教育はよくない。
子どもの自主性をどこまでも尊重すべき。
いろいろな失敗をすることによって、子どもは成長する。
甘やかしはよくない。

などなど…。

え? どこが問題なの? あたり前のことじゃないの、と思うかたもいらっしゃるだろう。
わたしも、自分の子どもが生まれるまでは、同じように考えていた項目も多い(もちろん、子育て当事者にいったりはしなかったものの)。

しかし私は声を大にしていいたい。世の中にはいろいろな子どもがいるのである。発達障害の子どもの親に、このようなことをいうのは、ほとんど親を追いつめることに等しい。このような信念を持っていたとしても、どうか自分の心のなかだけにしまって、自分の子どもの子育てのときにだけ、活用して戴きたい。もしくは講演会などを開いて、聴講希望者だけに講演して戴きたい(冗談です)。

 このような信念を個別にぶつけてくる人は、たいてい「その子が生まれもった個性が大事。それをのばすことが大事」だという。しかし「個性が大事」という人ほど、そもそもすでにさまざまな個性をもつ子どもがいるのだという事実、その個性(特性)のせいで、本人が苦しむ可能性があるのだという事実を、まったく配慮してくれていないように感じる。子どもは親が育てたようには、必ずしも育たないものである、といいたい。

私の子どもが集団行動が苦手な原因は、もちろん私の躾が生き届かないのかもしれないが、少なくとも断固として「愛情不足」のせいではない。もともと生まれつき持っている「特性」による部分も大きい。

そもそもうちの子どもには、親との絆が確立しにくい特性がある。子どもと親との距離は、傍目には「疎遠過ぎ(関心がない)」ように見え、またあるときには「必要以上に近すぎる(子どもの不安が強いため)」ようにみえるだろう。疎遠過ぎるときには、「母親が冷たすぎる」と責められ、近すぎるときには、「日頃、母親が冷たすぎるのでは?」と疑惑の眼差しでみられる。つまりはつねに「愛情不足」という冷たい眼差しを向けられるのを感じる。しかし経験からいえば、こういう母親を責める眼差しこそが、子どもに対する愛情不足を引き起こす引き金になり得るとさえ、私はいいたい。被虐待児の多くの部分を、発達障害児が占めているのは、偶然ではない。ただでさえ「育てにくい」子どもたちであるのである。そのうえに母親を責めることは、子育てを苦行にするだけではないか。

私は子どもの「意向」を全面的に尊重する子育てはできない。もちろん、子どもの気持ちは救いとりたいとは思うし、意欲を摘み取るような教育は間違っていると思う。しかし小さなうちに社会性を学んで欲しいと思うからこそ、子どもが何を言おうとも、心を鬼にして「ダメなものはダメ」、「不適切な行動はいかなるときもダメ」と子どもの意向など全面的に無視をすることは多々ある。

「あなたはなにをしたいの?」とつねにたずねて考えさせるというような教育ができるのは、子どもにそもそも考える力や、他者に共感する能力が備わっている場合のみである。少なくともうちの子どもは、自分で適切な行動をいくら考えさせても間違えることが多い。そもそも軌道修正する力が極端に弱いから、最初から「正解」を示して覚えこませるしかない。「健常児」には望ましくとも、修正の効かないうちの子どもには無理であるし、「有害」な教育法であるとさえ思っている。不要なパニックを引き起こすだけだ。

こういった私の子どもへの指示の出し方をみて、主体性を尊重しないダメな教育だと思う人がいる一方で、つねに子どもが失敗しないようにと先回りして配慮をお願いすることを、「甘やかし」だという人がいる。告白すると、私も以前は発達障害の子どもを持つお母さんに同様の印象を持っていたからよくわかる。しかし世の中には、一度の失敗が致命傷となり、ずっと失敗を忘れられない子どもがいるのである。一度間違って覚えこんだら、なかなか修正が効かない子どもがいるのである。「大きな失敗からも学んで、プラスに転化できる」子どもは、すでに生きていく力を多分に持った子どもなのだ。その基準を、すべての子どもにあてはめろというのは、私からすれば暴論としかいいようがない。

スキンシップに関しても、スキンシップが好きな子どももいれば、感覚過敏でなかなか受け入れられない子どももいる(「ちゃんと抱っこされることができるか」は、幼児期に自閉症を見分けるときの、メルクマールとすらされている)。それを「抱っこが足りないのでは?」とか、子どもの特性を知ってもなお、「スキンシップが満たされていたら、多動で手は出さないんじゃないですか?」などといわれると、「はぁ!?」としかいいようがない。

最後にお稽古事について。「問題を起こす」子どもは、やりたくもないお稽古事を見栄っ張りの親から押し付けられて、そのストレスから問題を起こす、という定式が、とくに教育関係者にあるようである。うちの子どもが療育を含むお稽古事に忙しいのは、一にも二にも、療育効果を狙ってのことである。子どももやりたいというし、また実際にいろいろな子どもや先生との関係が築くチャンスとなり、私は満足している。あまり知られていないことであるが、発達障害の子どもは運動機能にも問題が多々あるため、運動のお稽古事をとりいれるのは、学校で劣等感を持たせないためにも、重要なことだと私は思っている。

しかし事情をよく知らないで、「お稽古事をさせるなんて可哀想」と不用意にいってくる人がいるのである。考えてもみて欲しい。母子家庭でありながら、多大な費用を掛けて、送り迎えの手間暇をかけてお稽古をすることがどれだけ大変か。仕事にもしわ寄せがくる。皆さんみていると、週末などは夫婦で負担し合っているところを、私はひとりで担っているのである。そのお金があったら、どれだけ生活も楽になるだろう。学童にいれっぱなしにできたらどれだけ生活の負担は軽いだろう。この自分の生活の犠牲が、「愛情」といわないのならなんだろう、とすら思う。

子どもの特性は、信頼できる人にしか話していない。事情を知らないでこのようなことを他人にいってくる人は、そもそも「信頼できない」人だと思うので、何もいわない。適当にやり過ごすだけである。しかし実際には、じわじわと効いてくるのを感じる。

そんななかで、実際に子育てに苦労した先輩ママの励ましは、いつも心に沁み入る。どんな子どもだって、子育ては実際にままならないこともあるのだということを、是非皆さんには心に留めていてもらいたい。たまたま「できのいい子」をもった人は幸せであって、同じ教育がすべての子どもに有効ではないのである。

善意のアドバイスが、ときどき本当に心に重い。

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シリーズ「発達障害かもしれない子どもと育つということ。」は、毎月15日にアップ予定です。

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カテゴリー:発達障害かも知れない子供と育つということ / 連続エッセイ

タグ:発達障害 / 子育て・教育 / 秋月ななみ