エッセイ

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親として、わかってもらえないと感じること 秋月ななみ

2014.11.20 Thu

                        発達障がいかも知れない子どもと育つということ。24

 

小1プロブレム・予防&改善プログラム 〜特別支援教育と学級経営・学習活動に使える目的別メニュー55

著者/訳者:橋本創一 細川かおり 栗原 治子 渡邉 貴裕 原田 智恵子 尾高 邦生

出版社:ラピュータ( 2011-03-11 )

定価:¥ 2,052

Amazon価格:¥ 2,052

単行本(ソフトカバー) ( ページ )

ISBN-10 : 4905055059

ISBN-13 : 9784905055051

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 今回アップが遅くなったのは、ひとえに私が原稿を出すのが遅かったからである。すみません。何度もいくつかのバージョンの原稿を書いては破棄しの繰り返しだった。

 

 個性的な子どもを持っていると、悪意のない人に傷つけられる、という経験は多々ある。おそらくこちらが勝手に傷ついているのだが。いろいろと理屈をこねくり回しても結局なんとなく、私の「怨念(笑)」のようなものが顔をのぞかせる原稿しか書けない。ならば、もうそのまま経験を書いてしまおうかと思う。

 

 「子どもに支援員をつけて欲しい」「勉強がついていけなくなるのが、心配」と頼んだときに、学校側に「障害枠で就労するのに、勉強は必要ない。九九だっていらない」と言われたこと。うちの子は心理テストでは知能は平均はあり、知的で手帳をとれるとはとても思えず、ショックを受けた(けっして障害枠での就労を、差別している訳ではない)。障害枠での就労ができる人は、ある意味では恵まれた「典型的な障害者」にあてはまる人であり、娘のような診断がつくかつかないかという程度では、とても無理である。「精神」のカテゴリーに発達障害をいれることもできるようになってきたものの、やはり難しい。娘のような存在は、ある意味で制度の谷間にはまってしまう。

 

いろいろな配慮を学校側に頼んだら、「不満があるなら、特別支援学校のある地域に引っ越してもいいのでは?」と言われたこと。「とくに問題がないから、支援員はいらないのでは?」と配慮してもらえないのに、今度はいきなり特別支援学校に行けと言われても…。支援学校を差別していると受け取られると困るが、あくまでも「うちの子の場合は」、普通学級のなかで社会性を学ぶほうが有益だと思う。「勉強はできなくていい」の繰り返しで、嫌なら出ていけといわれているようで、悪意はないのだろうけれども、本当にがっくりと来た。

 

 学校での配慮を頼むと、「家庭での触れあい」を求められること。こちらは学校での配慮を(主観的には)少し求めているにすぎないのに、すぐに「愛情不足」とばかりに、「抱きしめていますか?」とか「一緒にふれあいの機会を作っていますか?」という話に還元されてしまうこと。私の育て方にも問題があるかもしれないが、少なくとも子どもが生まれもった特性の部分も大きいと私は思っている。愛情不足と責められると、むしろ愛情がなくなりそうだ。こちらは母子家庭であり、触れあいの機会とやらをわざわざ作らなくても、四六時中二人っきりである。

 

  「小学校が大変なんです」とこぼしたら、自称教育に詳しい人に「あなたのような話は聞いたことがない」「特殊なケース」「あなたのような人がいるから公立不信が広まって、私立受験をするような人が増えるんですよ!」と罵倒されたこと。典型的な「小1プロブレム」で、特殊なことではないと思うので、驚いた。少なくとも私の周囲には(あたり前だが)、学校との付き合いで悩んでいる人はたくさんいる。そして私たちの私立受験は、よりよい学歴を求める「健常児」の場合とは、まったく意味が違うのである。そもそもこういった子どものための私立受験はかなりの狭き門で、学費も信じられないくらいに高額である。私立にも問題は多々あるのは承知しているし、称揚している訳でもない。しかし自分の子どもの公立学校体験がいくら素晴らしかったとしても、一般化されるのは迷惑である。

 

 一般的な「小1プロブレム」の問題、幼稚園・保育園と小学校での活動の間にギャップがあって、上手く橋を掛けられない問題として語り、「皆がお遊戯しているときに、廊下で寝転がっている(多分、発達に問題のある)子どもを放置している園もあった」というと、「素晴らしい教育じゃないですかっ!」と吐き捨てるようにいわれたこと。本当に開いた口が塞がらなかった。おそらく障害児向けの教育を健常児にしても害はないと思う(ベストではないとは思うものの)。しかし健常児にむけた「自由」な教育は、少なくともうちの子には、よい風には働かない。皆と同じ行動をとらない子どもを放置することが「主体性の尊重」だと思われているとしたら、そんな配慮はいらない。きちんと適切な行動を教え、ケアをして欲しいと思う。

 

 どの人も悪気があってのことではないのだと思う。学校側も、「勉強、勉強って。大切なことは、毎日楽しく過ごすことじゃないの。子どもの障害を、きっと受け入れられないんだわ。まったく、いまどきの保護者は」と思っているかもしれない。公立万歳の人は、「公立小学校で問題があるだなんて。ああいう人がお受験とかさせて、格差社会を加速させるのね。しかも子どもを型にはめたがって。ああいう人が、管理教育をまん延させるんだわ」と思っているかもしれない。しかし、私の思いは違ったところにある。なによりも相手は饒舌に語るのに、こちらは沈黙を強いられるという、その構図にやりきれなさを感じるのである。私が勝手に傷ついているのだとしても。

 

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シリーズ「発達障害かもしれない子どもと育つということ。」は、毎月15日にアップ予定です。

 

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カテゴリー:発達障害かも知れない子供と育つということ / 連続エッセイ

タグ:発達障害 / 子育て・教育 / 秋月ななみ