2015.12.19 Sat
世間の人には理解できない職業よ。毎朝、バーの前で厳しい練習を重ね、体を酷使するわ/ダンサーにとって一番つらいのは、いつか踊りをやめる時が来ることよ。見るに堪えない姿になるわ/ 私たちは感情を出さないように訓練されてるのよ。美しく見えるように。辛いことがあっても他人には関係ないから。悲しげな観客が来ても、悩みのある観客が来ても、私達は ほほえんで踊るの。災難があっても公演は続けなくちゃ/[i]
240年間、外部に閉ざされてきたボリショイ・バレエ団の舞台裏に初めてカメラが入り、劇場関係者の率直な言葉を伝える内幕物。美しい舞台を支えるバレリーナたちの言葉からは〈わが身〉を削って〈芸術〉を作り出す女性たちの苛酷な現実がうかがわれる。劇場側の総裁、議長、芸術監督といった「評議会議員」の男性たちの権力闘争はよりすさまじいのだが・・・
冒頭映し出されるのは、『ラ・バヤデール』第三幕「影の王国」。アラベスク/パンシェの動きを繰り返しつつゆっくり舞い降りる精霊たちの姿はまさに夢幻の世界。けれどその背後には権謀術数、不信、疑心暗鬼、嫉妬といった人間ドラマの数々が渦巻いているのだった―
主題は、2013年1月に起きた襲撃事件の〈その後〉。顔に硫酸をかけられた舞台監督にして元スターダンサーのセルゲイ・フィーリンが手術を終え劇団に復帰してくる廊下の風景がホラー映画のようで恐ろしい。襲撃を指示し逮捕された元ソリスト・ドミトリチェンコの柵の中の顔はまるでサイコパス。しかし、この人、この年、『イワン雷帝』のタイトルロールを踊っているのですね。なんだか本当にコワイ話。ここは一体どこですか?「ボリショイは秘密兵器」と語るメドヴェージェフ元首相まで登場するとあっては、もはやこれは一バレエ団のスキャンダルを超えて、混迷する「現代ロシア」の縮図とまでも見えてくる。
それにしても男たちの顔が皆、人相よろしくない系。女性たちは舞台を降りると苦しげに生きている風。子育て中のファースト・ソリストが舞台上でフェッテを披露している最中、舞台袖では息子がゲームをしている姿が映っていた(泣けますね)。〈芸術〉と〈政治〉のスキャンダラスな関係の合間に挿入される名作舞台[ii]の数々だけが、救い。ドロドロした人間感情を切り捨て、至高の高みを極めた抽象性が、限りなく美しい。
優れたドキュメンタリーで知られるイギリス国営放送、BBCによる製作。監督はロンドンを拠点に活動するイギリス人、ニック・リード。イスラエルの刑務所内部、バグダッドのグリーン・ゾーン、カブールの病院(以上・TV)、殺人犯を収監したロシアの刑務所を取材するなど、<危険区域』>に入りこんだドキュメンタリーで知られる。<ロシアの至宝>ボリショイのバレリーナたちの苛酷な現実に思いをいたらされる。
2015年9月19日(土)よりBunkamuraル・シネマほか全国順次公開
© 2015 RED VELVET FILMS LTD. ALL RIGHTS RESERVED
配給:東北新社
公式HPはこちら http://www.bolshoi-babylon.jp/
原題:BOLSHOI BABYLON/2015/イギリス/ロシア語・英語/87分/日本語字幕:古田由紀子/字幕監修:赤尾雄人/配給:東北新社/Presented by クラシカ・ジャパン/宣伝: セテラ・インターナショナル
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[i] 順に、マリーヤ・アレクサンドロワ(プリンシパル)、マリーヤ・アラシュ(プリンシパル)、アナスタシア・メーシコワ(ファースト・ソリスト)の言葉。宣伝資料より部分引用した。
[ii] 映画の中に登場する主なバレエ演目は次の通り。『白鳥の湖』ユーリー・グリゴローヴィチ振付(マリウス・プティパ&レフ・イワーノフ&アレクサンドル・ゴルスキー原振付)、『ラ・バヤデール』(ユーリー・グリゴローヴィチ振付、マリウス・プティパ原振付)、『スパルタクス』(ユーリー・グリゴローヴィチ振付)、『ロスト・イルージョン:失われた幻影』(アレクセイ・ラトマンスキー振付)、『イワン雷帝』(ユーリー・グリゴローヴィチ振付)、『アパルトマン』(マッツ・エック振付)。宣伝資料を参照した。
カテゴリー:新作映画評・エッセイ / 映画を語る
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