
シキーニャ・ゴンザーガ(Chiquinha Gonzaga)は、前回に引き続き南米の作曲家、ブラジルはリオデジャネイロに1847年に生まれ、当地で1935年に亡くなりました。
母親のロザは、Mullato と呼ばれる、先住民とヨーロッパ人の間に生まれた人でした。母親はシングルマザーとして、ひとりでシキーニャを産みました。その8ヶ月後に父親ホセは娘を認知し、ロザと家庭を持つに至りました。これは当時のブラジル社会で、非常に稀なものだったと言われています。現にシキーニャの祖父は帝国陸軍の旅団長を歴任、父親も陸軍中尉でした。この錚々たる家系は、出自に対する差別や偏見が当然のように根強くあり、祖父は父親の結婚を一切認めませんでした。
しかしながら、娘のシキーニャは下に妹や弟もでき、伸び伸びと育ちました。良家の子女が受ける一般的な教育、カトリック教会の神父様に読み書きや算数、宗教、外国語を学び、活躍する指揮者やフルート奏者の叔父からピアノを含め 音楽全般を習いました。日曜日、教会の帰りは近くの公園の民族音楽バンドを楽しみ、11歳で妹の詩に曲を書くなど、きわめて幸せな生活です。
ブラジルの歴史をごく簡単にひも解けば、ポルトガルの植民地時代が長く続きました。ポルトガルはフランスのナポレオン対イギリスの争いに巻き込まれ、王女や皇太子を筆頭に大勢が1808年にリオへ移りました。新世界の始まりです。ブラジルは高貴なヨーロッパ文化、土着の文化を混在しながら、独特の文化を発展させました。そこで果たした音楽の役割は、たいへん大きかったのです。王国は1889年まで続き、その後は共和制に移りました。
シキーニャは父親の勧めで16才のとき結婚します。お相手は8歳年上、やはり良家出身の海軍軍人。才能ある女性のイバラの道の始まりです。日がなピアノを弾いて時間を費やす彼女に、夫は楽器を弾くことを認めませんでした。音楽を好まなかったことに加えて、シキーニャの心が音楽に向いていることをライバル視する男性でした。ピアノを取り上げるも今度はギターを見つけ弾こうとする彼女に、自分と音楽のどちらを取るかと迫りました。3人の子供に恵まれながらも、夫のあり方は、最終的に夫のもとを去ることとして横たわりました。ポルトガル語原語の記述によれば、約5年間の忍耐の結婚だったそうです。
当時のブラジル社会で、女性が高い職にいる夫から逃げることは、たいへんなスキャンダルであり、シキーニャの両親は離婚を一切認めず、存在すら無きものとしました。夫の元にいる子供に会うことさえ叶いませんでした。この背景には、すでに次の男性との出会いにより、その男性へ出奔したとの記述もありました。これに大そう憤慨した夫が、彼女をカトリック宗教裁判所へ訴え、世間的な大スキャンダルに発展させ、彼女を窮地に追いやったと書かれています。
当時、離婚を選ぶ女性に対する罰として、どこまでも窮地に追いやるのが一般的な社会の感覚だったそうです。すでに少年期だった長男は幸い連れて出られましたが、後の幼いふたりの子どもとは引き離されました。どんなに親権を得たくても、女性から離婚をすることさえ一般的ではなかった社会で、その上、他の男性の存在もあれば、果てしなく世間の反感、差別、偏見に耐えないければいけませんでした。

ほどなく、自活をするため、プロとしてピアノ弾きになりました。彼女が生きる道は音楽しかありませんでした。ブラジル発祥の音楽《ショーロ》のライブに顔を出すようになり、この頃には、彼女の存在はミュージシャンやボヘミアンの間で尊敬の的となっていました。ほどなく、ライブで顔見知りの音楽家も増え、フルート奏者をリーダーとするショーロ音楽バンドに加わり、ピアノ弾きとして演奏を始めます。唯一の女性ミュージシャンとして、その立場は絶えず偏見と差別にさらされていましたが、このフルート弾きの男性はシキーニャに捧げる曲を何曲も書きました。間もなくして、この男性はブラジルのショーロバンドの第一人者として名前が広まっていきました。
ちなみに、《ショーロ》とは、ブラジルで発祥した民族音楽のひとつ、ポルトガル語で「泣く」が語源とされています。当初は、フルート、ギター、ブラジルのウクレレの編成でした。ブラジルは、ヨーロッパ、アフリカ、インディオの民族が混在した中で音楽が生まれ発展しました。ブラジル音楽の基本に流れるものはサウダージ(Saudade/郷愁・切なさの意)で、失くしたものへの郷愁を感じさせます。
シキーニャはほどなく別な男性と付き合います。世間の冷たい視線に、ふたりはリオを離れて生活を始めました。1年ほどののちリオにもどり、その頃には娘が誕生しました。そして同じころ、シキーニャには別な男性との出会いと恋愛もありました。また、別な記述では、この男性の数ある不貞にうんざりしたシキーニャが、彼の元を去ったと言われています。そして、またしてもシキーニャが親権を取ることは許されず、裁判所命令の接見禁止が出されており、娘と会えなくされてしまいました。
恋愛はあれど、結婚による経済的な後ろ盾のない彼女は、その後リオから3時間くらい北の港町へ移ります。修道院のある、ごくごく中産階級の住む街で音楽で生計を立てます。当時、とりわけ手に職もなければ、女性は男性に体を売る仕事以外に道のない中、音楽で生計が立つだけの収入を得ました。また、この背景には女ともだちによる精神面の援助、ピアノの生徒を紹介してもらうなど、周りの暖かさにも助けられていました。
1877年、30才のときに初めての作品ポルカ「Atraente」が出版され、主要新聞の1面にニュースが載り、この作品は出版されたその年に15版を重ねる大人気となりました。彼女をリーダーとするバンドのライブも頻繁に行われ、長男もクラリネット奏者として参加を始めました。その後も、絶え間なく作品を書き続けて、それはタンゴもワルツも含めたあらゆるジャンルの音楽で、大人気を博しました。
この背後には、保守的な社会に敢然と足を踏み入れ音楽と対してきた彼女が、親しみやすい作品とともに人々を魅了したことがありました。作品が官能的で情熱的なのは、長い間の偏見や差別に勇気を持って耐えてきたからこそ。やっと日の目を見ることにもつながりました。

その後は飛ぶ鳥を落とす勢いで作品が売れました。一般には100部も売れれば御の字だった時代に、彼女の作品は2000部も売れたそうです。このほか、作品はオペレッタ、カーニバルの音楽、劇場音楽と多岐に渡ります。1910年にはヨーロッパ・ツアーを果たします。ドイツ、ベルギー、ポルトガル、スペイン、イタリア、イギリスなど広範囲に渡るものでした。ポルトガルからの依頼で、ポルトガルで上演されるオペレッタにも曲を書き、1500回以上も上演されました。
一方、彼女は世の中に横たわる差別反対の活動家としての一面もありました。黒人奴隷解放運動、先住民族出身者の差別撤廃、果てはブラジルのより良き未来へ向けて共和国運動にも加わりました。1916年のブラジル著作権法への尽力、1917年は劇作家協会誕生の発起人の一人にもなりました。コンサート会場で自作をみずから手売りををし、収益はすべて惜しげもなく黒人解放運動へ寄付をしたのは言うまでもないことです。

シキーニャの最後のパートナー
ちなみに、長いこと恋愛から離れていたシキーニャでしたが、52歳の時に新たな男性と知り合い恋に落ちました。大きな年齢差がありました。お相手は若干16歳、才能ある将来有望な音楽家で、シキーニャのファンでした。今までの差別や偏見を思えばけっして世間に公表できる年齢差ではなかったことから、彼を義理の息子として、養子縁組という一計を案じて、世間にはわからないよう周到に振る舞いました。そして、ふたりでポルトガルのリスボンへ引っ越します。彼の地では幸せな数年をともに暮らしました。リオに戻っても妻と夫という立場はけっして世間に知られることなく、ふたりの生活を一切口外することなく暮らしました。
彼女は「ブラジル初」が枕につく活動が数々ありました。女性が仕事を持つ土壌の育っていない社会で、音楽を武器に社会に立ち向かう姿。カーニバルのマーチを書いた初めての作曲家。初めてオーケストラを指揮した女性。そこからヨーロッパ音楽とアフリカのリズムを融合させ、ブラジルのポピュラー音楽を広範囲に発展させました。音楽活動を支えに壮絶な差別と偏見と闘いながら、不屈の精神で20世紀に生きるブラジルの女性たちに勇気を与えました。ちなみに、当時のブラジルには、指揮者は男性という固定観念があり、ポルトガル語には「指揮者」の女性名詞すら存在せず、シキーニャの記事を書くマスコミは大そう困ったそうです。
シキーニャは20世紀の前半、1935年に88才で亡くなりました。最期は夫に見守られて静かに息を引き取りました。彼女の訃報がブラジル中を駆け巡った時、初めて養子とされていた男性が実は夫だったことが世間へ知れ渡りました。世間の偏見や差別と闘う長い人生に幕を下ろしました。1999年、「大衆音楽の女王」の生涯を描いたテレビドラマがシリーズで放映されました。
ブラジルで有名な作曲家はVilla-Lobos ヴィラロボス(1887~1959)です。シキーニャより30年ほど後に生まれ、同じく育ちは良くとも12歳で父親を亡くし苦労を重ね、それでも後年、政府奨学金によりヨーロッパで学び、帰国後はリオの音楽院院長に就任。シキーニャが同世代だったとして、果たして女性作曲家がここまでの認知や活躍はあったでしょうか?
この度の作品演奏は「Agua do Vintem~ヴィンテムの泉(筆者訳)」です。軽快に進むタンゴ形式。Vintemはリオ市内の地区で、作曲時の1867年ころ、ブラジルはまだ水道設備が整っておらず、市民は貴重な水の供給をたいそう喜んでいたという解説が、楽譜に付記されています。
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