今月はチェコの作曲家ヴィーテスラバ・カプラーロヴァー(Vítĕzslava Kaprálová) をお送りします。1915年、当時のチェコ第2の都市・ブルノに生まれ、1940年にフランス 南部のモンペリエで亡くなりました。25年の短い生涯に、作曲家として45の作品を書き、指揮者としての活躍もありました。長いこと忘れ去られた存在でしたが、西暦2000年に入り作品が改めて見直されています。

 チェコは、ドヴォルザーク、ヤナーチェック、スメタナ、マルティヌーなど、スラブ民族音楽を独自の作風に築いた個性的な作曲家たちがいます。生涯を読むにつけ、これらに繋がるまばゆいばかりの人脈を自分のものとしたカプラーロヴァーにたいへん興味が湧きました。

 彼女が生まれた1915年当時、チェコはオーストリア・ハンガリー二重帝国の下に存在していました。1916年はサラエボを訪問中のオーストリア・ハンガリー二重帝国の皇太子夫妻の暗殺事件が起こり、これをきっかけに第一次世界大戦が勃発します。

 両親の友人知人には、その後のチェコを牽引する音楽家・アーティストたちが数多く存在しており、カプラーロヴァーは豊かな環境に育ちました。母親は声楽家、父親は作曲家でありピアニスト、作曲はヤナーチェクに師事しました。後年は地元ブルノで音楽院を立ち上げ、ピアニストとして2台ピアノや4手連弾コンサートで活躍し、相方のピアニストはルドヴィック・クンデラ。「存在の耐えられない軽さ」等で知られる作家ミラン・クンデラの父親でした。

 恵まれた環境下、ブルノ音楽院に入学し指揮と作曲を学びました。最初に興味を引いたのは声楽の分野で、母親の影響でした。とりわけチェコ詩人の表現する「ことば」に魅了され、数々の詩に曲を書きました。中には後年ノーベル文学賞を受賞したサイフェルトの詩へ曲をつけた作品も残しています。この頃、自らも好んで詩を書きました。

 ブルノ音楽院時代は、すでに数々の作品を手がけ、作品1は「ピアノ組曲」。後年オーケストラパートを加筆し、「小さな組曲」と名付けられました。歌曲、ピアノ協奏曲、室内楽曲、オーケストラ作品と多作でした。卒業記念のコンサートは、話題の彼女のコンサートとあって、地元各紙を始めドイツ系新聞も競って批評記事を出し、中には「これほど素晴らしい彼女のピアノ協奏曲を、音楽院がたった1楽章しか披露させなかったことは誠に遺憾だ」と書いた記事もありました。

 引き続き1935年、20歳でプラハ音楽院の修士課程に入りました。当時のチェコ最高峰の音楽家たち--ドボルザークの弟子のノヴァックに作曲を、指揮はタリヒ(当時のチェコフィルハーモニーや国立劇場を牽引する指揮者)に師事しました。

 プラハの時代は、彼女の代表的な作品が次々と生み出され、プラハに台頭し始めていた「現代音楽」のサークルやフォーラムに積極的に参加し、盤石な足場を築き始めました。作品8「弦楽四重奏」、ピアノ曲は作品12「4月のプレリュード:Dubnova Preludes」が生まれました。この曲はチェコを代表するピアニスト、同郷でブルノ音楽院同窓のルドルフ・フルクスニー(1912~1994)に献呈され、彼の類稀なテクニックと音楽性により、後年パリで評判を呼び、カプラーロヴァーの更なる知名度に繋がりました。1937年にはブルノ時代の卒業作品のひとつ「ミリタリーシンフォニエッタ作品11」を加筆修正し、チェコフィルハーモニーにより初演が行われ、カプラーロヴァー自らが指揮をすることで一層の評判も呼びました。また、翌年にはイギリスBBCシンフォニーオーケストラもこの曲を取り上げました。

 ちなみに、フルクスニーはチェコの政変によりパリに逃れ、ナチスの台頭によりアメリカへ亡命、生涯をアメリカで終えました。演奏のかたわら多くの弟子も輩出し、筆者が通ったNYジュリアード音楽院のピアノ科教授をなさっていたことから、コンサートに魅了された記憶も、また、学内で時々お見かけした晩年のお姿も懐しく蘇りました。

 ほどなく、1938年前後、カプラーロヴァーはフランス政府給費留学生としてパリに渡り、名門パリ・エコールノルマル音楽院に学びます。作曲をナディア・ブーランジェ、指揮はシャルル・ミンシュに師事しました。ちなみにブーランジェ(1887-1979)は、一時代を築いたフランスの女性作曲家・教育者です。長命だったことも手伝い多くの生徒さんを育てました。

カプラーロヴァーとマルティヌー(右)

 そして作曲の個人指導は同郷のマルティヌーに仰ぎます。マルティヌー(B.Martinu 1890- 1959)はカプラーロヴァーの父親の友人だったため、ブルノで彼のピアノ協奏曲を聞き、プラハでは食事を共にする機会もありました。異郷のパリで、マルティヌーの存在はほどなく頼りになる父親代わりとなって行きます。マルティヌーも同郷の若き才能にあらゆる援助を惜しまず、その恩恵は計り知れないものとなったことは容易に想像がつきます。

 その後、密度の濃い師弟が男と女の関係に至るには大した時間もかかりませんでした。父親の友人ですから、親子ほどの年齢差はありましたが、ふたりは急激に惹かれ合いました。政情への不安から二人でアメリカへ渡ろうと話し合い、ブルノの両親に手紙を送りました。しかし、マルティヌーはすでに妻のある身。第二次世界大戦下、パリはドイツ軍に占領されていました。盟友のピアニスト・フルクスニーから戦下を逃れるようにと強い助言を受け、結局、1941年にマルティヌーはその妻とアメリカへ亡命を果たし、その後フランスを経てスイスで添い遂げました。

 一方、カプラーロヴァーはマルティヌーの勧めによりジュリアード音楽院へ入学志願の手紙を書きました。しかしながら、いつまでたっても返事はなく、手紙が学校へ届いたかすら定かではありませんでした。もし戦争の混乱がなければ、きっかけはマルティヌーとしても、若き才能は新天地アメリカで一層広い世界へ羽ばたいていたかもしれません・・・思いは果てなく巡ります。

夫となったジリ・ミーシャと

 1940年、カプラーロヴァーは同郷のジリ・ミーシャと結婚しました。ふたりはパリのチェコ人コミュニティで、互いに芸術に関わるものとして出会いました。しかしながら、カプラーロヴァーは結婚式の朝までマルティヌーと過ごしていたという記述も見つかりました。いずれにせよ、この結婚は彼女の死のほんの2ヶ月前のこと。ちなみに、夫となったジリ・ミーシャは、日本にもファンの多い画家ミーシャ (Alfons Mucha、ミュシャとも呼ばれる )の息子さんです。ジャーナリストの傍ら、父親の芸術財団の貢献に努めました。

 カプラーロヴァーが短い生涯に至るには、激しい痛みが体に走り始め、直接の死因は結核によるものと記載が見つかりました。マルティヌーは、病に伏せる彼女を見舞い、結果的にそれが二人の最後となりました。ほどなく夫ジリにより、戦時下の困難を極める中、フランス南部モンペリの療養所に移され、夫に見守られて亡くなったと記録されています。夫・ジリの回想によれば、カプラーロヴァーの最後のことばは「それはジュリエッタ/ It is Julietta 」だったとあります。ジュリエッタはマルティヌーのオペラ。最期までマルティヌーの音楽が聞こえていたのでしょうか。

 死に至る前の1939年~40年、一層多くの作品を書き上げ、「ふたつのチェロとピアノのためのリトルネッロ作品25」が遺作となりました。早逝さえしなければ才能をいかんなく発揮し、ヨーロッパを代表する作曲家のひとりとして活躍したことは間違いありません。他の女性作曲家と同様、男性優位社会の下、忘れ去られていた時期が長かったことも、この状況に拍車をかけました。

 1946年、チェコ科学芸術アカデミーは彼女に名誉会員のタイトルを与えました。1948年において、会員648名中、女性会員は10名、カプラーロヴァーは唯一の音楽家でした。現在は、故郷ブルノに彼女の名前を冠した小学校が存在します。今後は認知のさらなる広がりを願い、筆者も作品を演奏していきたいと思います。


 作品演奏はチェコ時代の代表作「4月のプレリュード」作品12。4曲構成の第2番をお送りします。内的世界の豊かさ、類まれな才能を感じさせる作品集です。