エッセイ

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「朗読者」の「翻訳者」―映画「愛を読むひと」公開記念 松永美穂さんインタビュー(下)

2009.09.02 Wed

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今回のインタビューは、重要な内容に触れる箇所(ネタばれ)が含まれます。まだ本を読まれていない方、映画をご覧になっていない方は、ご注意ください。

*主人公の中途半端さに迫る

B-WAN:
主人公の少年に腹が立った話が出たので、そろそろ物語の核心に迫りたいと思いますが、映画を見終わるといくつか不思議に思うことがあって、そのうちのいくつかは小説から引き継がれているものですが、やはり議論になっています。



B-WAN:
ひとつに、主人公はずっと朗読のテープを刑務所にいるハンナに送りますが、ハンナからの手紙に一度も返事を書かなかったのはなぜでしょうか?

松永: 
2000年に『朗読者』の翻訳が出た時に、結構好意的な書評がたくさん出て、私より年上の男性批評家の人が、絶賛というか、すごくよく書いてくださったんです。それからしばらくたってから、斎藤美奈子さんが平凡社の月刊誌に出していた面白い批評があったんですけど、読まれました?「あれは包茎小説」とか書いてあって(笑)。

B-WAN:
「包茎小説」ですか(笑)。

松永: 
「男の子がそういう性体験をさせてもらって、都合のいい時に女の人が姿を消してくれたという、全部男に都合よくなっている。男の子は彼女のために何をしたかというと、それがアータ、なんにもしなかったのよ」と書いてあって(笑)。そういうふうにも読めるわけですよね。主人公の少年は手紙も出さないで冷たいとも読めるので、斎藤さんが言いたいことはよくわかりました。私も読んでいて、ハンナの気持ちが謎のまま唐突に死んでしまうような印象があったので。

B-WAN:
「主人公に腹が立って腹が立ってしょうがなかった」という意見は、よく聞きます。

松永: 
そうおっしゃる方多いですね。斎藤美奈子さんをはじめとして、女性の読者だと。でも、だからといって、もっと彼女のために行動すればよかったのかというと、そうするとまたちょっと話が変わってしまいますよね。主人公はそういう形の答えは出したくなかったんだろうと思います。私自身はすごくドイツ的な文脈の中で読んでいて、なんで手紙の返事を書かなかったかというのは、まさに主人公の少年の中途半端な立場と関わっていると思うんです。
彼の生まれた年が1944年で、戦争体験がなくて、戦後の民主主義の中でアウシュヴィッツは「悪」として教えられてきた。けれども、自分の愛した人は、その悪の権化みたいなアウシュウィッツの元看守だったということで衝撃を受けるわけじゃないですか。だから彼は、学校教育的なもので教えこまれた模範回答と食い違うところに立っている。それに対して、さらに一歩踏み込んで、個人的な感情を優先してハンナに会いに行くとか、手紙を書くとかもできない。すごく迷って、ああでもない、こうでもないと思いながら朗読テープは送る。つまり、コンタクトはとるんだけど、でも自分の感情を表すような手紙は送らない。それは、ドイツ的な文脈の中で、多分、主人公の少年に許されるギリギリのことだった。

B-WAN:
うーん、どうでしょう。ラブストーリー的回収を望んでヤキモキするのは、ちょっと違うなと思うんですよね。愛しているなら手紙に返事を書くべきだったのに、とか。愛しているなら裁判長にハンナの秘密を明かすべきだったとか。

松永: 
もっと踏み込んでワーッと感情的にハンナの方に行ってしまえる主人公だったら、逆に話も変わっていたと思うんです。ハンナが終身刑になるのを防いだとか、裁判長に彼女は字が読めないことを伝えて助けてあげるとかだと、別の話になってしまう。そうすると今度は、戦犯だったのが男の子の純粋な愛によって、免罪されたという話になっていくと思うんですけど、多分、シュリンクは、それもしたくなかったかできなかった。すごいギリギリのところでバランスをとろうとして、彼の中の葛藤を表すために、手紙の返事を書かせなかったんじゃないかと思います。

B-WAN:
たしかに。おっしゃるようなドイツ的な文脈を外してしまうと、主人公の中途半端さが全面に出過ぎてしまうのかもしれません。

松永: 
日本の文脈で分かってもらえるか自信ないんですけど、ドイツ的な常識だと、そこで朗読テープさえ送らない人が多いと思う。「エッ、そんな奴だったのか」といって引いてしまって、個人的な接触は全く考えられない。彼女が自殺するのも、自殺しなければ、恩赦であそこから出てくるじゃないですか。そうするとその後の話もつくらないといけないんだけど、そこで幸せに生き延びましたというふうには、シュリンク的にできなかったんじゃないか。そういう話になると、罪を償って幸せな晩年を送りましたという、また別の話になってしまって、彼の投げかけたい問いというものが生きてこないのかな。これはでも、今までに自分が読んできたドイツ文学を総合しながら勝手に思っていることで、別に、作者に確かめたわけじゃないんですけど。
だけど、アウシュヴィッツ裁判とかは文学の重要なテーマになっていて、ペーター・ヴァイスというユダヤ系の作家が書いた裁判劇もあるんですけど、やっぱり元看守の人たちが、いかに自分の責任を免れようとして「私は軍の命令にしたがっただけです」とシラを切り続けるところがクローズアップされています。もちろん、それとは明らに違う視点で『朗読者』は書かれてますけど、ドイツ的な文脈抜きには主人公の置かれた位置がうまく理解できないかなと。
B-WAN:
もうひとつ、ナチスの話と並んで、ハンナが自分の文盲を隠すことが、物語の重要なポイントになっています。この点も、日本では文盲に関する認識も理解しがたいように思います。恥ずかしいことか、隠すことかという以前に、そもそも文盲であるということがよく分からないんです。これは、世代の問題かもしれませんが。

松永: 
そうですね。現在のドイツでもさまざまな理由で読み書きできない人はいるみたいです。それだけじゃなくて、裁判のシーンで、ハンナの出身地はジーベンビュルゲンと言っていて、当時はそれがどういう意味か思い当たらずに訳していたんですけど、ジーベンビュルゲンは現在のルーマニアで、ハンナの生まれた年が1922年ですから、ルーマニアは第一次世界大戦の後で独立したので、それまでそこにいたドイツ系の人たちが戦後の混乱の中で教育を受けられないで大変な目にあってドイツに流れてきたんじゃないかとも読めます。
ハンナがあの年齢で読み書きができないのも、そういう背景が想定されているみたいです。そういう意味では、ハンナは前の戦争の犠牲者でもあったんだということを中部大学の歴史学の先生が新聞に書いておられたのを後になって読みました。階層もあるけど、戦争被害や難民・移民の話もあるみたいで、このあたりもドイツの文脈に立たないと分かりにくいところですね。

B-WAN:
全然知りませんでした。そう聞くと、ずいぶんと映画の見え方も変わってきますね。

松永: 
本を読むことが人間にとってどういう意味を持つのかというのはこの作品の大きなテーマですが、映画の自殺の場面が原作とちょっと違っているなというのも思いました。ハンナが刑務所を出る日の朝に、本の上に乗って自殺するじゃないですか。せっかく字を覚えて本が読めるようになったのに、それを踏み台にして死ぬというのが、なかなかショッキングな描き方だなと。盲目というテーマを研究してらっしゃる方が、『朗読者』の映画をアメリカでごらんになって「あの映画の場面は、文字を覚えたことでハンナが幸せにならなかったということをアピールしている」とおっしゃっていました。どうかな。たしかに、そういうふうにもとれてしまう終わり方だなと思ったんですけど。どう思われます?

B-WAN:
なぜハンナが死を選ぶのか、というのもこの作品の重要なポイントですし、解釈が分かれるところですよね。何が正解かは分かりませんけど、ひとついえるのは、小説ではいい意味でモヤモヤさせられたのに対して、映画は解釈の手がかりが多くて、若干踏み込みすぎているように思えました。ハンナは死ぬ、こういう理由で、という解釈ができちゃうけど、そのわかりやすさじゃない方がいいのではないかというか。

松永: 
だとすると、映画でのハンナの死に至るやりとりは、好き嫌いが分かれるところかもしれませんね。

B-WAN:
先ほど話しにも出ましたが、小説にはなくて映画で新たに追加された教会の場面で、大人になった主人公が、娘にハンナの秘密を打ち明けるシーンがあります。WANでも上野千鶴子さんが映画評を書かれていて、「最後のシーンはない方がいい、墓場まで持っていくべきだ」とおっしゃっていました。松永さんはどうご覧になりましたか?

松永: 
上野さんのコメントはもちろん読ませていただきました。娘に話すのは余分だということですね。そもそも、原作には娘が少ししか出てこないし、映画では主人公の家族の役割がずいぶん変わっているなと思いました。原作の本の中ではハンナが文盲だということを公表するか悩んだ時、哲学者である父親ならどう答えるか聞きにいきますよね。映画だと、ブルーノ・ガンツが演じている法学部の教授が、父親的なものをすごく体現しています。 全然答えを言わない、聞き役の教授ですね。ただ、あの脚本は原作者もかなり目を通して納得しているとのことです。娘に話せる、次の世代に引き継げるということで原作よりは明るい終わりになっているなと、私は思いましたけど。ここでは主人公の体験が、個人的なものというより、ドイツ的・歴史的なものとしてとらえられていると思います。

B-WAN:
今日は気がつかなかったところの理解が深まりましたし、考えるヒントを貰ったように思います。帰ってもう一度、小説を開いてみます。今日はどうもありがとうございました。

松永: 
ありがとうございました。








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