今月は初めて北欧の女性作曲家をご紹介します。スウェーデン人のエルフリーダ・アンドレー(Elfrida Andrée)は、1841年ヴィスビュー(Visby)に生まれ、1929年、ヨーテボリ(Gőteborg)で亡くなりました。オルガン奏者、指揮者、作曲家、そしてスウェーデン女性解放運動の先駆者として活躍しました。ヴィスビューはスウェーデン本土からバルト海対岸のゴッドランド島にあり、城壁の町としてユネスコの世界遺産に指定されています。
父親アンドレアス・アンドレーは名家の出身、職業は医者でした(政治家説もある)。権威を極端に嫌い、女性が男性と隔たりなく活躍する社会を願い、娘の教育への援助を惜しみませんでした。5歳上の姉は、スウェーデンを代表するオペラ歌手として活躍しました。
エルフリーダは勉強のためにストックホルムへ引越し、スウェーデンの当時を代表するルドヴィグ・ノーマン(Ludvig Norman)とニルス・ゲーゼに師事します。ちなみにノーマンは19世紀スウェーデンを代表する音楽家で、作曲•指揮・ピアノと幅広い分野で活躍しました。ライプツィヒ留学中は、ファニー・ヘンゼル・メンデルスゾーン(第1回エッセイ参照)の弟のフェリックス・メンデルスゾーンに師事し、クララ・シューマン(第2回エッセイ参照)の夫ロベルト・シューマンと知己を得ました。
1857年、エルフリーダはストックホム音楽院オルガン科を志願しました。しかしながら、当時オルガン科は男性のみが入学を許されるの世界だったため、その入学は正規のものと見なされないまま、在籍だけは許されました。エルフリーダは並み居る男子学生を尻目にあっという間に頭角を現します。学校でさえ、女性に正式な入学を許さない中、その後、女性オルガニストも教会で働けるように、法律を変えるための果敢な戦いに挑みました。国会への請願運動を展開し、4年後にとうとう法を動かします。1867年、ヨーテボリ大聖堂の正式オルガニストに就任、亡くなるまで、その確固たる地位を築きました。
また、1860年代はスウェーデン女性改革の大きな動きがありました。学校教師、歯医者、オルガニストなど様々な職業に女性が採用されるに至りました。今でこそ、男女平等が定着したと言われている北欧ですが、初めからこうだったわけではありません。先駆者となるエルフリーダ達の果敢な戦いがあり、それを礎にして、成熟した今日の社会を作り上げたのです。
ちなみに、教会音楽と切っても切れない楽器であるオルガンは、中世・ルネッサンスの時代までアマチュアの女性奏者に手軽な楽器として親しまれ、また、女性達が教会のオルガンを担当するのも一般的でした。その後キリスト教が普及するにつれ、各国のキリスト教への扱いは、「国教」としての発展がありました。このように、しだいに女性オルガニストは排除され、男性オルガニストのみが活躍する分野に狭められた背景があります。その中でも名門フランス・パリコンセルヴァトワール音楽院は、世界に先駆け1819年に女性の入学を許可するオルガン科を設けました。セシル・シャミナード(第5回エッセイ参照)もハーモニウム(リードを用いた種類のオルガン/パイプオルガンより安価)のための曲を残しています。
エルフリーダは一方で、作曲家として活発な創作活動も続けていました。二つのオルガン交響曲、3つの交響曲、オペラ作品、ピアノと室内楽--ピアノ5重奏、ピアノ4重奏、ピアノ3重奏、ピアノソナタ、バイオリンとピアノのためのソナタ、弦楽4重奏曲も残されています。一方で親友の戯曲家と共同作品として世に問うたオペラ作品は不評に終わり、しばらくショックから立ち直れなかったとの記録も見つけました。
さらにエルフリーダは、スウェーデン女性解放運動の先駆者として名を馳せました。男性のみに解放されていた電信技術の分野で免許を取得するに至りました。女性の地位のために邁進する彼女を全面的に支えたのは、長らく娘たちを通して女性解放を願っていた父親でした。恵まれた--それゆえに茨の道でもあった環境から、女性地位向上への強い意識を持った女性だったのです。けっしてエリート意識だけの女性ではなく、幅広い層に受け入れられた作曲家・演奏家でした。彼女のコンサートを聴くために遠方から大勢の人が駆けつけたそうです。
87歳で生涯を閉じ、その頃すでに彼女の作品は忘れ去られた存在になっていましたが、1980年代に入り、本国スウェーデンで改めて作品が見直され始め、今日に至っています。
この度の作品演奏は、ピアノソナタ作品3より3楽章。冒頭から北欧らしいリズムで始まり、まるで北欧神話の妖精たちがそこかしこを飛んでいるような光景が浮かびました。一見の印象とは裏腹に、なかなか難解な曲でもありました。このほか、ピアノ室内楽曲に素敵な作品がありますので、ご興味をお持ちいただけますなら幸いに存じます。