男流文学論
上野千鶴子他著
筑摩書房 発行
1992年1月 発行
20年以上前の出版、富岡多惠子さんが呼びかけて、とにかく「読書会」からでもとはじまった記録―「男流文学論」。富岡さんの『「文学」は、人間特有のおもしろさを、豊かに味わわせてくれるものだとの思いがわたしにはある。その「文学」に対する不信や軽蔑が生まれるのには、さまざまな錯綜した理由があるだろうが、考えるためにさしずめできることは、「名作』や「文学作品」を読んで、それらが「女性」不在の批評の積みかさねによってつくられた価値かどうかを調べてみることであった。」(あとがきp.406)という思いが上野千鶴子さん、小倉千加子さんを引き寄せ、世に出たものだった。
いま読んでも、まだ変わらない価値観がある。『「男流文学」のキモチ悪さをこもごもに語る三人の女のやりとりを聞いて、男の読者なら、無理解や不快さを感じるかもしれない。だがそれはちょうど「女流文学」を勝手きままに裁断してきた男に対する女の側の不快さに通じるものである。「もう一つの性」に自分がどう見えるかを知るのはわるくない。そしてそれを「無知・無理解」と呼ぶ前に、なぜそう見えるかを自問してもいいのだ。』(あとがきp.401)鼎談のなか、随所に「無知・無理解」の闇を照らし、上野さんらしく辛辣に、痛快に光の下に曝してくれる。
研究者の曝す言説に胸がすくような気持ちよさを感じてきたらシメたもの。そして、いままで、さらりとやり過ごせたものが、ひっかかるようになったら、まんまとあなたもはまってしまった証。
『「文学」という池に投げ込まれたフェミニズム批評の一つの石』の波紋をあなたも感じてみては見に行ってみてはいかがだろう。きっちりはまったあなたは、もう後戻りできない。自由さを手に入れて独りになる。あなたがはじまる。
堀 紀美子
2016.09.03 Sat