連載第12回は沖縄の金井喜久子さんです(以下敬称略)。1906年宮古島に生まれ、1986年東京で亡くなりました。旧姓は川平(かわひら)さん。川平家は喜久子の祖父の代に首里の伊江家から分家をし宮古の土地に大いなる貢献をしました。父親は県会議員も務めました。
喜久子の母親はどんな時にも気丈に一家を支えました。第一次大戦の好景気も相まり「宮古上布織り」の卓越した技術は高額の取引がされ、工場経営10年後には父親の残した借金も返済、他人に渡っていた土地家屋も買い戻します。妹思いの兄が一人、次姉は後年「沖縄の歌姫」として大活躍した多嘉良カナです。
喜久子は、幼少から琴、三味線、西洋楽器、様々に興味を示します。母親の応援もあり、那覇の県立第一高等女学校に合格します。友人に恵まれ、美術教師の「音楽学校に行ったら」の言葉は、喜久子の心に深く留まりました。
当時は沖縄が今より更に下に見られており、「沖縄民謡は下品なものだ」と、浴びせられる言葉に大きなショックを受けます。ヨーロッパ各国の民謡や黒人民謡は教科書に載っているのに、なぜ沖縄民謡が下に見られるのだろう?何も劣るものはないではないか?と考え続けます。心ない言葉は一生を強く支配するきっかけとなり、これこそが音楽の道へ邁進するきっかけでした。沖縄民謡はオタマジャクシがないから広がらないんだと考えました。
まずは、日本音楽学校で声楽を学び、東京のレベルに打ちのめされますが、持ち前の根性で卒業を果たし、その後は活動写真館に職を得て日々歌い続けます。ある日、東京商大(現・一橋大)オーケストラで歌う仕事をもらいます。そこで後に生涯の伴侶となる金井儼四郎氏に出会いました。趣味でトロンボーンを弾く青年でした。その後、友人として何でも話せる親しい間柄になっていきました。
金井氏は音楽の世界に邁進する喜久子に、「アルバイトなどやめてもっと勉強をしなさい。僕がなんとかするから」。間接的なプロポーズでした。双方の家族の反対はあれど二人は結婚します。その後、夫の勧めで1935(昭和10)年、27歳で東京芸大に入学、今度は作曲を学びました。夫はどんな時も喜久子を応援し続ける穏やかな優しい人でした。二人は水と油のごとく違う性格、喜久子が作曲にひたすら精進できたのは夫の多大な協力があってこそ、とは友人たちの弁。また、母親として激しい叱責はあれど、持ち前の明朗さで後は引かなかったと、ご子息のお言葉です。
一方で、今より更に男尊女卑の時代、同級の男性たちは「女に何ができる」と喜久子を白い目で見ます。男性の心ない言葉は、この後も長いこと続きます。その上「沖縄民謡なんて」と偏見に満ちた言葉も受けました。女性であり、沖縄音楽を愛する沖縄出身者、喜久子の根幹をなす二つは、このように耐え難い環境を進んで行きました。
そんななか、作曲の下総皖一先生の広い視野から発する言葉に救われもし、また、呉康次郎先生には男女を超えた非常に厳しい指導を受けます。どんな場面でも「沖縄民謡の普及」が絶えず心にあった喜久子は、好んで沖縄民謡のメロディを取り入れた作品を書きました。
芸大卒業の1937年は国家総動員法が公布、翌年はヨーロッパで第二次世界大戦が勃発、1940年は大政翼賛会が発足、日本は戦争拡大へ突っ走っていました。
太平洋戦争の始まった1941年、東京の日比谷公会堂で呉先生門下の例年の発表会が行われました。喜久子は交響詩曲「琉球の思い出」を発表。西洋の作風が主流だった当時、最初は反対も受けましたが、結果として一番大きな拍手をもらい、先生たちの評判も上々でした。沖縄民謡の作風はいかにも冒険でしたから大いなる不安もありましたが、結果上々に大いに気を良くした喜久子でした。
同年12月8日、日本軍は真珠湾攻撃を仕掛け、新聞は大本営発表を続けます。負け知らずの日本軍を信じて疑わなかった国民は熱狂しました。この環境下、ピアノを弾くことを白眼視され、オーケストラの総譜(スコア)のオタマジャクシがスパイの暗号と誤解を受けることもありました。それでも喜久子は、怯むことなく精進を続けます。
1944年には日比谷公会堂で「金井喜久子第一回発表会」を開催、「琉球舞踏組曲」、交響詩曲「宇宙中の詩」を発表しました。戦時下のこと、指揮者が前日に赤紙で応召されてしまい、急遽喜久子自身が指揮をすることになります。女性指揮者の登場に聴衆は驚き、何が何だかわからない内にコンサートは終わり、気がつけば万雷の拍手、大成功を収めました。大きな新聞記事も出ました。引き続き翌年は第二回発表会、「琉球狂詩曲1番」、「交響曲第2番」が初演されました。
日本は戦争に突き進み、東京も頻繁に空襲に見舞われ焼夷弾を落とされます。食べ物さえ事欠き、防空壕作りに忙しく、音楽どころではなくなりました。軍部は戦意高揚のポスターを掲げ、ニュースも日本軍の大成果を伝えますが、それは現実の生活とかけ離れていました。夫は職場を守るために東京へ留まり、喜久子は山梨へ疎開します。沖縄にもひどい空襲があったと聞こえはしても、正確な情報に乏しく、もどかしくいたある日「沖縄戦に勝ち抜け」の号外を見て、初めて故郷の惨劇を実感しました。1945年、日本は二つの原爆投下を受け、大きな敗戦を迎えます。夫婦は東京でなんとか再会を果たし、復興に苦労をしながら暮らしました。
1953年には、故郷沖縄を訪れます。変わり果てた故郷に、どれほどの惨劇だったかを思い知り、一番の願い、後輩たちも眠る「ひめゆりの塔」へ参拝も果たしました。沖縄は1952年に米国統治に入り、返還を果たす1972年まで続きました。
加えて喜久子の大きな業績に、沖縄民謡の採譜がありました。沖縄本島・伊江島・宮古島・八重山島の民謡・童謡、誇るべき美しいメロディーの、組織的な研究と調査に取り組みます。当時の重い録音機を担いで三味線弾きの先生のお宅へ何十回と通いました。録音を聴いては、それぞれ三味線パートと歌詞パートを採譜。歌詞を西洋音楽の記譜法に置き換えるのは、相当な苦労が伴いました。数年を経てとうとう音楽の友出版から『琉球の民謡』を上梓します。その後、栄誉ある「毎日出版文化賞」を受賞しました。ご子息によれば、喜久子は作曲家・バルトークを尊敬していたと。ちなみにハンガリーの誇るバルトーク(1881~1945)は盟友コダーイとともに各地に伝わる「わらべうた」を録音機を担いで採集し、そのメロディをもとに作曲、独自の世界を築きました。
1954(昭和29)年には、「第7回国際民族音楽会議」日本代表に選ばれ、ブラジルのサンパウロへ出かけました。論文「日本音楽と沖縄音楽」をレコードをかけながら講演し、大好評を得ました。その後は、マーロン・ブランド主演映画の音楽担当も、歌舞伎劇「唐船物語」、バレエ音楽、オペレッタ、フルートとピアノのための「てぃんぐさの花」変奏曲など、沖縄民謡を使った、たいへん多くの作品を残しました。
喜久子は創作の傍ら、生涯にわたり沖縄の平和や本土と同等の権利を求め、国会陳情を繰り返し、沖縄平和祈念資料館建設に尽力しました。子育て・家庭との両立に、朝4時起床でを創作活動を続けた喜久子は、沖縄を思い沖縄民謡を愛し、沖縄のことば--ニライカナイ(海の向こうにある理想郷)を求め続け、80歳の生涯を閉じました。
参考文献 「ニライの歌」「琉球の民謡」金井喜久子著
ご子息金井弘志氏に、上記「琉球の民謡」や貴重な楽譜をご恵贈いただき、数々の質問にご丁寧なお答えをいただきました。この場をお借りして心よりお礼申し上げます。
作品演奏は、「月夜の乙女達」沖縄民謡・加那よーのメロディを基にした作品です。
<ごあいさつ>
これにてエッセイ連載を終了いたします。1年間のご清覧ありがとうございました。第二弾連載も構想中です。また、コンサート「陽の当たらなかった女性作曲家」実現に向け、WANのお仲間が動いて下さっています。全国各地でお会いできる機会に期待をこめて。。。その節はご来場をおまちしております!
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