
専業主婦だった薄井シンシアさんという女性が著名ホテルの副支配人になって活躍している、という新聞記事を読みました。(2016年12月3日朝日新聞の土曜版「フロントランナー」)。彼女のパワーや人柄にひきつけられて読んでいったのですが、
「君の好きなようにしたらいい」。夫(58)も背中を押してくれた。
の1節にひっかかりました。この「背中を押してくれた」が曲者です。
日本語教師たちが日本語を教えるとき苦労している項目のひとつに、「やりもらい」とか「授受表現」とか現場で言っている表現があります。何かをあげたりもらったりするときの言い方です。英語なら「give」、中国語なら「給」ですむのに、日本語では「AはBにりんごをあげる」「BはAにりんごをもらう」「Aはわたしにりんごをくれた」と3つの動詞を使い分けます。英語や中国語のように、こういう使い分けをしない言語の学習者は混乱してしまいます。それが、物のやりとりだけなら、物を動かして練習を繰り返すうちになんとかマスターしますが、行為や動作と一緒に使って「~てあげる/~てもらう/~てくれる」となると、なかなか面倒で、すんなりと理解したり使ったりするのは難しいようです。
この中の「~してくれる」は、何かをしてもらったことに対して、「恩恵を受けましたよ」、「感謝していますよー」ということを伝える表現です。こういう表現のない言語の人は、「Aに教えてもらった/Aが教えてくれた」という恩恵を表す言い方はせず、「Aが教えた」と事実だけをいいます。
さて、シンシアさんにもどりましょう。夫と妻の間の「授受表現」です。以前「くれない族」ということばがはやったこともありましたね。「夫が~してくれない」「愛してくれない」などの恨み節でした。何かをしてくれるのを待っていたり、何かをしてもらうのが当たり前だと考えていると、それが実現しないときに「なんにもしてくれない」と不平や不満になってしまいます。
シンシアさんの記事では、「夫が背中を押してくれた」と、シンシアさんの側に立って書いています。つまり夫の後押しによってシンシアさんがいい仕事ができているという書き方です。その前の文章では、シンシアさんが一人でどんどん道を切り開いてきた活動的な女性として描かれています。そういう人がほんとに「夫が背中を押してくれた」と言うだろうかと、まずひっかかります。また、「君の好きなようにしたらいい」というのが、肩を押すことなのかも疑います。
「好きなようにしたらいい」は、自分はあなたのすることに干渉しない、邪魔しないという意志表示で、極めて消極的な発言です。「肩を押して」相手に力を貸して支援するという積極性は全くありません。邪魔をしないことが日本の夫の支援なのだとしたら(現実はそうかもしれませんが)、これも寂しいことですね。この1節は記者の強い思い込み―もっとはっきり言えば「偏見」―で書かれているとしか思われません。妻の側が恩恵を受けるのが当然、そして、夫は邪魔をしなければ十分に支援しているのだという偏見です。
妻は、いつも夫に「何かをしてもら」い、それを「してくれた」と感謝しなければならないのでしょうか。たまに夫が手伝うから、また手伝わない夫が多いから、「(うちの夫は)(きのう)手伝ってくれた」と恩恵を表す言い方が生きてきます。いつもいつも夫も妻も同じように家事をしていれば、「夫は私と一緒に家事をする」と事実だけ言えばいいし、どの夫もみんなが家事をするのであれば、それが当たり前で、あえて「家事をしてくれる」と言う必要はなくなります。恩恵を受けているとあえて言わなければいけない状況だからこそ、「夫は家事を手伝ってくれる」という表現がのさばっているのです。
「夫が何かをしてくれた」と言う必要のない自立した人を称賛する記事にまで、それを書くのはやめてほしい。夫が積極的に支援したのであれば、「夫は妻の社会復帰に肩を押した」と事実だけを書いてほしかった。
逆の場合を考えてみましょう。「妻が肩を押してあげたから夫は社会復帰できた」と言いますか。「夫は妻に肩を押してもらったから出世できた」と書くでしょうか。
また夫本人も「妻が育児を手伝ってくれるから自分は会社で働ける」とは言わないでしょうし、「妻が働いてくれないから自分は会社を辞められない」とも、(本心はともあれ)言わないでしょう。
妻だけが恩恵を受けるというのはおかしくないですか、そういう仕組みは変ではないですか。まず「夫が~してくれる」の多用を疑ってみませんか。「夫が家事をした」「夫が育児をする」という事実だけを言う言い方もあることを考えてみませんか。生活の実態をことばは表していますが、ことばから実態を見つめなおすこともできるのです。
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