原タイトルは、Dukhtar(Daughter)「 娘」という単純な名詞である。これに「よ」を入れて、「娘よ」としたことで、物語性とメッセージ性が生み出された秀抜なタイトルになった。メディア用の試写券を見たとき、娘よ、と「呼びかけられた」評者は直ちに視聴しようと思ったものである。

女性であれば常に(出産直後母が死亡したとしても)母の娘であり、そして多くの女性は娘の母であろう。フェミニズムは、この永続する母―娘関係の重要さに明暗の光を当て、様々に論じてきた。評者もその一人である。なぜならこの関係は、娘でも母でもある女性の生き方に大きな意味を持つからである。評者にも母への葛藤があった。そして現在でも母―娘関係を論じる言説は多い。ただし今ここでそれを開陳するのは不適切だから置いておこう。

脚本も書いたアフィア・ナサニエル監督は自身女性としても体験を踏まえて、パキスタンの男性主導社会を間接的に批判しつつ、母の、死をも辞さない娘への強い愛情を伝えている。

カラコルム山脈のふもと、パキスタン北部の村には多くの民族が暮らし、絶え間ない衝突と融和が繰り返されている。娘、ザイナブは学校(あるいはどこか)で、で英単語を学んだらしく単語の意味も知らないまま母、アッララキに、教えようとしている無邪気なまだ10歳。父親は紛争相手の族長から、嫁としてザイナブを差し出すように要請される。夫とは年も気持ちも離れ、自らも15才で嫁いできたアッララキは、公然とは反対しないまま、結婚式当日の朝、母娘二人で逃げ出してしまうのである。この後はハラハラ・ドキドキの遁走劇。相手の部族のみならず、「名誉を傷つけられた」自分の部族からも追っ手が迫る。なんとか逃れての、道中トラックに拾われる。

はじめ邪見に追い払おうとするこの運転手、ソハイルは、やがて事情を知り、またこのままだと自分も殺されてしまうこと気づきここからは3人の逃亡生活になる。トラックが途中で故障し、徒歩で親友の居る部落に辿りつきそこでかくまってもらう。急峻な山間の、つかの間の平和な時間。そしてソハイルとアッララキに芽生える仄かな恋心。もう長いこと会えていない母親への思慕が募ったアッララキは、危険を冒して電話をかけ、ソハイルの協力を得て、都会のラホールの祭りのなかで母親に会う。そして初めて孫のザイナブを引き合わせる。愛と自由を求める二人。ただそこにはすでに追っ手が待ち構えていたのである、、、。「岸壁の母」の行く末は?

アッララキを演じた主演女優、サミア・ムムターズのリンとした美しさ。女性にとって生きることに基本が過酷な時、そのような条件は女性にどのような精神のかたちあたえるのか、と思わずにはいられない。そして娘、ザイナブ役のサーレハ・アーレフの愛らしさ。運転手、ソハイルの表情の深さと豊かさ。3人は困難と安堵のたびに見事に表情をかえてゆく。

監督、アフィア・ナサニエルは、40人の男性クルーと200人のエキストラを率いて、世界でも最も標高の高い道路でのカーチェイスをしかけ、このサスペンスとロマンスに富んだ映画を作り上げたという。実話をもとに作品の完成に10年を要したのは、制作資金の調達にもまして、パキスタンで女性を主人公にした映画を女性監督が作るという困難があった、と。ちなみに日本で初公開のパキスタン映画である。
劇場に足を運んでいただくことを切望する評者である。

タイトル:娘よ (2014年 パキスタン/米国/ノルウエー 93分)
監督・脚本・制作:アフィア・ナサニエル
アッララキ(母):サミア・ムムターズ
ザイナブ(娘):サーレハ・アーレフ
ソハイル(トラック運転手):モヒブ・ミルザー
ドーラッド・ハーン(父):アーシフ・カーン
 

コピーライト: (C 2014-2016 Dukhtar Productions, LLC)

2017年3月25日~4月28日まで、東京神田神保町 岩波ホールにてロードショウ。以降順次公開。