ほんとのことをいうと、わたしは相撲は好きではありません。裸同士がぶつかりあう肉体戦がどうにも好きになれないのです。でも、この1月と3月、稀勢の里をめぐって、メディアが大フイーバーしていましたので、つい、ちらちらと横から見ていました。その大騒ぎで気になったのが、「日本人で19年目の横綱」と、最後の逆転優勝での「男泣き」です。
1月の春場所で優勝して横綱に昇進したときは、「日本人横綱として19年ぶり」と大騒ぎでしたね。このとき「日本人」のことばがメディアに氾濫しました。確かに稀勢の里は茨城生まれで両親も日本人で、国籍が日本ですから「日本人」には違いありません。そのだれも疑いもしないし、言われなくてもわかっていることを、なぜ、繰り返し繰り返し叫んだのでしょう。
最近の大相撲は、外国から来た強い若者たちが活躍して、横綱もモンゴル勢ががんばっているようです。この18年間で横綱になったのは外国から来た力士ばかりで、日本国籍の力士はいなかったのだそうですね。大相撲という競技の集団は、そこに入りたければ、そしてそれ相応の力があれば、どこの国からでも入れる開かれた場のようです。それはそれでいいことですよね。世界中の力の強い若者にとっては、横綱という最高位の名誉とそれに伴う巨額な富を手にすることができる、絶好の挑戦の場かもしれませんね。その集団に入って、厳しい辛い稽古を経て―なぜかこの世界では練習と言わないで稽古というようです―登りつめた横綱の席につく力士が、どこから来た若者であるかは問題ではありません。その競技のルールの中で力をつけて、ルールにのっとって横綱になったのです。それがたまたま外国籍の若者だったわけです。たまたま外国籍の横綱がこの18年間横綱の席について、その地位を守り、大相撲を盛り上げてきたわけです。
そこへ、今年の1月稀勢の里が登場しました。彼も努力の人のようで、稽古場の苦労に耐えて昇進してきてやっと横綱になった、それはほんとにおめでたいことです。ご苦労様ですと言いたいです。でも、それだけのことです。
それをメディアは「19年目の日本人横綱」と大騒ぎしました。どこの国の人でも横綱の座につけばおめでたいことです。それでいいではありませんか。稀勢の里が横綱になったからおめでたいのであって、日本人の横綱だったからおめでたいというのではないでしょう。19年目だからおめでたいのもおかしくないですか。19年目だからおめでたいのだとすれば、その間に横綱に昇進して、その地位を守ってきた力士たちは何だったのか、ということになりませんか。その力士たちは、日本という外国で、ことばや生活習慣で大きなハンデを背負いながら、ものすごくがんばって横綱になった。そういう力士たちの影を薄めることになりませんか。彼らは稀勢の里までのつなぎだったと言っていることになりませんか。これほど失礼なことはないでしょう。日本人横綱と騒ぎすぎるということは、「やっぱり大相撲は日本人でなくちゃあね。外国からの力士がどんなに強くても心がちがうよね。」というような本心の裏返しではないですか。まさにトランプ式の日本第一主義ではないですか。
さて、3月の春場所。稀勢の里は横綱になって初めての場所です。初横綱にはなんとしてでも優勝してほしいと、祈るような応援が渦巻きました。その期待に応えて、稀勢の里はとんとん勝ち進んでいきましたね。ところが、13日目、日馬富士に寄り倒されて土俵下に転落、動けなくなって救急車で病院に運ばれた。無念や最後の2日は休場か、優勝も無理かとファンもあきらめかけていたところ、14日目、大きなテープを左肩にはって登場。だが、左が使えなくて、あっさり鶴竜に負けて12勝2敗。そして千秋楽、1敗の照ノ富士と対戦。ここで、奇跡的に勝ってタイに持ち込み優勝決定戦。ここでも、右手だけで相手を倒してしまった。後半戦のドラマの連続にファンは酔いしれました。
賜杯を受け取った時は、さすがに胸に迫るものがあって涙が頬を伝ったようです。苦しい戦いに耐えて必死の思いで勝ち取った賜杯。感激胸に迫るものがあったとして、涙をみせたとしてもそれは、特にとりたてることではありません。こうした場面で感極まって泣いてしまうのはだれでもあること、男も女も、横綱でも十両でも同じことです。人間は感情を持つ動物、胸に迫るものがあれば、泣くのはあたりまえです。
翌朝のNHKのニュース。賜杯を受け取る画面にかぶせて、女性キャスターは一声高い調子で「稀勢の里の男泣きー」と叫びました。稀勢の里は男です。その稀勢の里が泣いたのだから「男が泣いた」には違いありません。でも、なぜここで「男泣き」の語で叫ばなければならないのでしょう。
そもそも「男泣き」とはどういうことでしょう。
安倍昭惠さんが、大阪の小学校建設の問題で矢面に立っています。最近は講演もひかえているそうですが、3月下旬には前からの約束だったのでしょう、都内で講演したそうです。その講演を始める前に昭惠さんが泣いたと新聞は報じました。でも、「昭惠夫人 女泣き」とはどこにも書いてありませんでした。
女性が泣いても「女泣き」と言いません。辞書を見ても「女泣き」ということばは出ていません。男性が泣くと「男泣き」。男は泣かないものだ、いや泣いてはいけないものだ、そういう男が泣くのだから、よほどのことがあったのだ、だから「男泣き」は男にとっての勲章の一つだ、ということになります。ニュースのキャスターは、そういう意味で叫んだのでしょう。
「男泣き」の語には問題がふたつあります。ひとつは、「男は泣かない、泣いてはいけない」という前提が正しくないことです。男も悲しければ泣くし、泣いてもかまわないのに、それが禁じられています。こういう前提に立ち続けたら、世の中の男性の大不孝です。泣きたいときに泣けない、泣きたくても泣けないなんて、感情を持つ人間のだいじな機能を封じ込められることになります。
もうひとつは、男が泣くのはよほどのことだから貴重だが、女が泣くのは当たり前だから、女が泣いても大したことはない、という女性蔑視がその裏に含まれているからです。
稀勢の里をたたえるのはいい。彼の人間性を大いに称えたらいいでしょう。でも、稀勢の里は稀勢の里として立派なのです。日本人だから、男だから立派なのではないのです。
2017.04.01 Sat
カテゴリー:連続エッセイ / やはり気になることば
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