
池澤夏樹氏の個人責任編集「世界文学全集」に日本人で唯一、選ばれたのが石牟礼道子さんの『苦海浄土――わが水俣病』でした。解説で、池澤さんは「戦後文学最大の傑作」と激賞しています。甚大な被害をもたらした事件が、口承文学のような文体で滔々と語られていく、このあまりにも著名な、と同時に読み取りのむずかしい作品と作家に、あらたな光を当てたのが本作です。
1969年1月『苦海浄土 わが水俣病』の刊行以来、文学界のみならず社会に衝撃をもたらし、詩人にして作家である石牟礼道子は類なき存在でありつづけました。けれど、著者の米本浩二さんにとって、石牟礼さんは「水俣病闘争のアイコン」にとどまらない、どうにも輪郭のつかめない大きな存在でした。石牟礼道子の文学的思想的盟友・渡辺京二氏の挑発にも似た奨めに一歩を踏み出し、著者は山脈のような石牟礼文学を読みほどき、周囲の人々に取材を重ねました。
「水俣病にとらわれすぎると石牟礼道子の正体を見誤る……常に水俣病に収斂する読み方をしていれば、石牟礼文学の豊かな可能性の芽を摘むことになりかねない。ではどんな読み方ができるのか。たとえば、普通に生きることができない人に石牟礼文学は向いている。」――と、著者の米本さんは書きます。普通に生きることは難しい、そう考える自分のような人に、石牟礼道子の書くものは寄り添うのだと見抜いたのです。
戦前の不知火のほとりで恵み豊かな海に育まれた幼年時代から、文学への憧れの萌芽、「女が新聞を読んどる」と非難されるような時代に妻となり母となりながらも創作の場を模索、渡辺京二との出会い、水俣病闘争の日々、知識人と交流のたえない現在の日々まで。知られざる創造の源泉と90年の豊饒を描き切る、初の本格評伝です。
今年は、石牟礼道子生誕90年にあたります。水俣病が公に認定されて60年経った現在も、水銀によって広がった被害はまだ収束していません。いまこそ、『苦海浄土』三部作を読み直し、またほかの作品群をひもときたくなる、そんな誘いに満ちた評伝です。
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