例の、教科書をつくる途中で、元の案のパン屋さんでは通らなくて和菓子屋さんに変えさせられたことで話題になった、小学校の道徳の教科書です。指導意見を取り入れて晴れて出来上がったいくつかの会社の教科書の中から、今度は各教育委員会が来年度から使う教科書を選ぶことになります。そのための教科書の展示会が区内の図書館で開かれていたので、行ってきました。

 「新しい」、「みらい」、「明日」、「みんなの」などの文字が表紙にもあふれていて、なんだか無理をしているなーというのが最初の印象でした。およそ道徳を自覚することなく日々を過ごしている者として、ここで道徳の教科書の内容について何かを言う気はありません。 しかし、やはりことばでは大いに気になりました。

 まず話しことばです。6年生の教科書です。ひとみと厚が話しています。会話部分だけを抜き出してみます。

厚:「もしよかったら明日から徒競走の練習をしようよ。……ひとみさんも仲間に入ってもらえるとうれしいな」
ひとみ:「私、そんなに走れないけど。それでいいなら走ることは好きだからやりたいわ」

 その練習の結果いい成績を出すことができたひとみを、他のクラスメートがほめます。
「ひとみさん速いのね。見直したわ」
(『みんなの道徳6』学研 78-79)

 別の教科書です。修学旅行の夜のことです。女子児童のことばだけ抜き出してみます。

鈴木:「……自由におしゃべりしましょうよ。先生もわかってくださると思うわ」
山本:「……もう注意しなくてもいいわよ」
となりのへやからきた級友:「うるさいわね。静かにしなさいよ。ねむれないじゃない」
(『新しい道徳6』東京書籍 76-78)

 「先生もわかってくださると思うわ」「注意しなくてもいいわよ」「うるさいわね」など、戦前の女学生なら言っていたかもしれない言い方です。今の6年生の女の子が言うでしょうか。こうした教科書を1年間使い続けるうちに、実際の子どもたちはどう考えていくでしょう。教科書のことばは自分たちのものとは違うということをじっくり時間をかけて習っていくのでしょうか。

 もうひとつ、気になったことばがあります。 3年生の教科書をみていて、「ぼくは」が多く使われているのに気がつきました。
「ぼくはこの四月にこの小学校へ転校してきました」
「ぼくはこれからおじさんのところに行きます」
といった調子です。「わたしは」もないわけではありません。
「わたしはすてきなものを発見しました」
などです。でもそれは「ぼくは」に比べたらかなり少ない。

 道徳を伝えるために、子どもの生活を題材にして身近に感じさせようとしている課が多いのですが、そこに登場する子どもはどうも男の子のほうが多そうなのです。それで、「ぼくは」という人称詞のほか、西郷隆盛などを除いて、「俊介は」のような性別のわかる名前が出てくるものを数えてみました。廣済堂あかつきの『小学生のどうとく3』では、「ぼくは、俊介は」式のものが13例、「わたしは、明子は」式のものが9例でした。教育出版の『小学 どうとく3』では「ぼくは、俊介は」式のが15例、「わたしは、明子は」式は9例でした。どちらも男の子が中心になって展開するストーリーが女の子のよりずっと多いのです。

 道徳の教科書だからこそこんなに差があるのは困ります。こういう教科書で毎日勉強する日本の子どもたちは、いつのまにかじわじわと男性が中心で動く男性上位の意識を身につけていってしまいます。これでは将来にわたってジェンダーギャップ指数111位から脱出するのは難しいのではないかと暗澹たる思いです。