若い頃のメル

 2ヶ月のお休みをいただきました後、今月の「陽の当たらなかった女性作曲家たち」は、フランスのメル・ボニスをお届けします。

 メル・ボニス(Mel Bonis )は1858年、フランスはパリに生まれ、1937年、同国サルセルで亡くなりました。今年は生誕160年に当たります。名前のメルは、当時のフランスでは女性が作曲を仕事としたところで需要がないとの考えから、本名のメラニー(Melanie)を中性的な名前メルに敢えて変えて活動しました。

 メルはきわめて快活な、歌の好きな子どもでした。家庭は中流の上の階級で、父親は時計職人の主任を務め、母親はクロークとして働いていました。大変敬けんなクリスチャンだったため、メルもその影響で信仰心の篤い子どもとして育ちました。ただ、メルの弾くピアノを騒音と思うほど音楽に理解のない両親だったため、メルは独学で細々とピアノを学びました。その環境の下、両親の友人でパリ音楽院コルネット科教授アンリ・モリーが退職後、メルに音楽全般を教えてくれることとなったのは、メル12歳の頃でした。

 メキメキ才能を表す彼女に、モリー先生は同僚だったパリ音楽院の作曲家教授セザール・フランクを紹介します。フランクにピアノと作曲を師事し、初めての作品は16歳の時分に書きました。フランクは彼女に大きな才能を認めました。

 フランクの指導の下、1年後には名門パリ音楽院に入学します。和声や作曲の授業は、クラスメートにドビュッシーやピエルネがいました。今も人気を博す錚々たる顔ぶれの男性作曲家たちです。一方、当時のフランスは、女性作品をまともに扱う土壌も育っていませんでしたし、作曲家を女性の職業として捉える環境もありませんでした。このため、本名のメラニーを中性的なペンネーム、メルに変えて、世間との余計な摩擦を避けました。

   エティシュ氏


 メルはパリ音楽院・歌唱のクラスではアメデ・エティシュと同級生になりました。この人物は22歳にして圧倒的な個性があり、すでに詩人、ジャーナリスト、音楽批評家として活躍していました。メルは彼の詩に曲をつけ、ともに作品を仕上げました。2人はあっという間に恋に落ち大きな影響を受け合います。

 アーティスト同士の危険でただならぬ関係を察知したのはメルの両親、大反対の果て2人を引き裂きます。娘の勉学の場から強制的に退学させたのです。当時、メルはどんどん頭角を現し、伴奏法は学年で2番、和声法では1番の成績、また作曲では将来を約束されたほどの才能を発揮していましたので、フランクをはじめとしてメルの指導者たちは、この事態に深く失望しました。

  夫のドマンジェ氏


 1883年、両親はメルに「見合い結婚」を強いました。お相手は活躍する実業家アルベール・ドマンジェ氏。メル22歳にして25歳年上の男性でした。加えて、2度の離婚歴と5人の子供を持つ人物。そして、よりにもよって音楽を好まない男性でもありました。陽気で商才に長けた実利的人物、メルの繊細でスピリチュアルな精神など全く意に介さないタイプの夫だったのです。

 まだ20代の若きメルは、この後10年余りをひたすら家庭生活に費やします。パリ一等地の自宅と高級地の別荘を行き来し、12人の使用人と彼女自身の生んだ3人の子供も含めた8人の子供の母として、マダム・ドマンジェとしての多忙な日々を送りました。

   ドマンジェ家の子どもたち


 家族の誰もが彼女の音楽的創作に興味も理解も示さない環境で、メルが音楽を渇望したのは至極当然でした。1890年には昔の恋人エティシュ氏に再会します。エティシュ氏も結婚していて、一流紙の著名な編集者として精力的に活動をしていました。再び作曲をするようメルを勇気づけ、出版社にも繋いでくれました。彼女の作品は、後年この出版社から出ることとなり、作品の認知が広がり、著名な演奏家がコンサートで取り上げるようになりました。エティシュ氏の書く詩にメルが曲をつけ、2人の共同作品は1914年に出版の日の目を見ました。

 メルは次第に2人が引き合うことの狂おしいほどの喜び、そして敬けんなクリスチャンゆえにつきまとう罪悪感、二つの気持ちを行きつ戻りつしていました。長い間のためらいの果て、とうとう彼の子を宿しました。家族には偽り、スイスで出産しました。生まれた女の子はマデレーヌと名付けられました。

 対外的にはブルジョアのマダム・ドマンジェとして生きるメルが、実の母親と名乗ることは決して許されず、娘には乳母をつけ、母親らしいことは何一つできないまま遠くから成長を見守りました。娘のニュースはエティシュ氏から入るだけ、苦悩とともにエティシュ氏への気持ちもまた高まっていく自分をどうにもできない、自宅では、次第に鬱症状を見せるようになっていくのもこの頃でした。

 この苦しみからメルを支えていたのは、音楽への創作意欲、そして作品を出版することでした。多作で、生涯に300ほどの作品を残しました。ピアノ作品は60曲、独奏曲、連弾、2台ピアノ曲、子どもに弾きやすい作品など。加えてエティシュ氏の詩による歌曲、宗教曲、室内楽にはピアノ四重奏曲が2曲など。弦楽四重奏曲、弦楽器やフルートとピアノのためのソナタ、11の管弦楽曲も書きました。

 一方で、作曲家協会会員となり、更に精力的に活動を続けます。この協会が主催する作曲家コンクールで、メルは最高位を2度受賞します。ちなみに、彼女の書いた作品をサンサーンスやグノーが「これが女性が書いた作品なのか? 信じがたく素晴らしい!」と感嘆したという記述を見つけました。その後、メルは1910年には事務局の仕事も買って出ます。ここでの仲間にはパリの音楽界を席巻するマスネー、前述のサンサーンス、フォーレなど、錚々たるメンバーがいました。この頃は彼女の作品が数多く演奏会にかかるようになりました。

 このような精力的な音楽活動の傍ら、彼女は厳然とブルジョア階級のマダム・ドマンジェであり、上の息子は高名な編集者を父親に持つお嬢さんと釣り合いの取れた結婚をしました。このように日々忙しくしながら、でも彼女の心はいつも遠くに離れて暮らすマデレーヌに注がれていました。

   娘マデレーヌとメル

 決して明かせはしない胸の中、娘の教育など心配は尽きません。マデレーヌが13歳の頃、すでに独り身だった父親のエティシュ氏が実の父親と名乗り出、マデレーヌはエティシュ姓になりました。第1次大戦がはじまった頃、マデレーヌの育ての親が亡くなったことをきっかけに、夏の休暇時は、メルがマデレーヌをドマンジェ家の家族に紹介しました。マデレーヌには自分は名付け親だと話し、周囲にはマデレーヌを戦争孤児と説明し、一緒に過ごすようになりました。


 戦争は誰にも暗い影を落とし、それはドマンジェ家の人々も同じでした。とりわけメルはひどく抑うつ的になり、いつも横になっている様子が周りに見て取れました。1918年には夫のドマンジェ氏が亡くなり、入れ替わるように戦争捕虜として長いこと囚われの身だった息子エドワードが帰還しました。


 明るいニュースも束の間、この息子エドワードとマデレーヌが恋に落ちてしまいました。なんという運命の皮肉でしょう。2人は父親が違う兄妹ですから、いよいよメルはマデレーヌに真実を告げることになりました。当時の法律や社会的モラルの前に、隠し子の存在は絶対に秘密にしなければいけませんでした。メルはマデレーヌに、神に誓ってこの秘密を守るよう厳命したのです。マデレーヌの受けた衝撃はいかばかりだったでしょう。現実を受け入れられないまま、その後は母親と同居し、ピアノに親しみ、母親の曲も弾いたそうです。


 1923年マデレーヌは母との生活を解消し、結婚しました。その後3人の子供を持つ母親として、時には母親のメルを訪ね、ゆっくり2人で時を過ごしました。マデレーヌも、いつも満たされない思いを持ち、深い悲しみを湛えている性質でした。日記を書き、自らを慰めました。メルも抑うつ状態に悩まされ、孤独を感じながらも作品を書き続け、天に召された人へ純粋な愛を向け敬けんなクリスチャンとして、1937年にその生涯を閉じました。

 この度の音源は、「神秘的な鐘 作品31(筆者訳)/Carillon Mystique Opus 31」をお聞きいただきます。1898年、40歳の作品とされています。和声進行に非凡さを感じさせる作曲家と感じました。


《出典/Reference》
Grove Music Dictionary
Mel Bonis.com / メル・ボニスの玄孫その他の親族によるメル・ボニスのサイト
musimen.com Mel Bonis (French)
http://www.musimem.com/bonis.htm
Women’s philharmonic advocacy
https://www.wophil.org/tag/mel-bonis/
小林緑 女性作曲家ガイドブック2016