シリーズⅡ第9回は、アメリカ合衆国のフローレンス・プライス(Florence Price)をお送りします。1887年、南部アーカンソー州のリトルロックで生まれ、1953年にシカゴで亡くなりました。
フローレンス・プライスは初のアフリカ系アメリカ出身の女性作曲家として、交響曲がアメリカのメジャーなオーケストラで演奏されました。父親のジェームズ・スミスはデラウエアの生まれ、フィラデルフィアで教育を受け、シカゴ初の黒人歯科医となりました。1871年、シカゴを焼き尽くした歴史的大火の被害により、アーカンソーのリトルロックに居を移します。州知事も患者の1人で、評判が評判を呼び、多くの患者に恵まれました。母親のイレーヌは小学校教師でした。2人は1876年に結婚し3人の子供に恵まれ、フローレンスは末っ子として育ちました。
合衆国の黒人たちの歴史はおおよそ1700年代に始まります。アフリカ大陸より、主に合衆国南部のコットン栽培の農家への労働力/奴隷として入りました。黒人は肌の色の違いから搾取される一方の長い歴史がありました。1862年にはリンカーン大統領による奴隷解放宣言が行われました。一方で、南部では黒人隔離政策を合法とするジム・クロウ法(隔離した中での平等)は18世紀後半から1964年まで続き、その後、マーティン・ルーサー・キング牧師の「I have a dream 」の有名な演説があり、公民権運動に多大な貢献をしました。とは言え、複雑な人種問題は今もって決して根絶される日は来ていません。
フローレンスは母親の手ほどきの下、3歳でピアノのレッスンを始めました。敬虔なクリスチャンだった一家は教会に通い、バッハやメンデルスゾーンの宗教曲にも親しみました。加えて、アンドリュー・ステファンとの出会いがありました。アーカンソーで初の黒人教師として、人種隔離政策の下、黒人の子どもだけが通う学校で多くの優秀な後進を育てました。フローレンスはこの先生に大きな影響を受け、生きる意志、やりたいことへの情熱など、自分の世界を広げる子どもに育ちました。
1903年、16歳でボストンの名門、ニューイングランド音楽院へ入学しました。父親の先祖はインド人、黒人、イギリス人の血を受け継いでおり、母親はフランス、スペイン、インディアンの血が混ざっており、フローレンスは薄い褐色の肌だったため、母親は娘がメキシコ出身と偽って音楽院に書類を出しました。当時の音楽院は黒人に門戸を開いていましたが、それでも無用な摩擦を避けようとの親心でした。当時の音楽院院長は作曲家のジョージ・チャドウィック、「夕べのつぐみ」で知られた女性作曲家エイミー・ビーチの師でもあり、フローレンスは彼の個人レッスンを受けました。
音楽院ではピアノ教授法とオルガンを同時に専攻し、優秀な成績で1906年に卒業しました。師事した教授のオルガン協奏曲の演奏に成功を収めたことで、オルガン演奏への思い入れがあることを自覚しました。
卒業後、1906年に故郷のアーカンソーに帰り、さっそく生徒を教え始めました。黒人のコミュニティでは、教師は尊敬する職業と捉えられていて、フローレンスは次第に教職が天職としての自覚も出てきました。専門学校で教職に就いたのち、大学での仕事を得ます。当時はくっきりと黒人隔離政策が敷かれていましたので、黒人生徒を教える教師として活躍しました。さらに自身で音楽学校も設立し、オルガン、ピアノ、バイオリンを教え、かたわら、生徒のレッスンに使用する曲を自ら作曲していました。
それでも、アーカンソー州の「音楽教師会」へ入会を希望すれば簡単に拒否をされ、肌の色に起因する以外に理由はありませんでした。このような状況でも、フローレンスは着々と自分の世界を確立していきます。自身で音楽評議会を設立して活動の場をより磐石にしていきました。1910年にはジョージア州アトランタの、クラーク・アトランタ大学の音楽学部主任のポストを得ます。
その後、1920年代も南部にとどまり活動していましたが、幼なじみで音楽仲間でもある男友達がニューヨークはマンハッタン・ハーレム地区に居を移すことが決まり、寂しさとともに、自分の行く末も考えるようになりました。当時、「ハーレム・ルネサンス」と言って、南部の黒人やカリブから移ってきた人達が、ハーレムを舞台に芸術や文学の豊かな文化を築いていたのです。
1927年、トーマス・プライス氏と結婚しました。弁護士として活躍していた男性で、アトランタで出会いシカゴで新生活を始めました。3人の子どもに恵まれましたが、最初の子どもは幼いまま亡くなります。フローレンスはこの時期、様々な大学でさらなる勉学に励みました。リベラル・アーツに深く傾倒し、外国語の習得も始めました。作曲への興味に開眼するのもこの時期でした。しかしながら、ほどなくシカゴでは白人の少女が殺される事件が起こり、黒人男性が容疑者とされました。この事件をきっかけに、黒人コミュニティへの風当たりは一層強くなり、夫のプライス氏の仕事への影響も大きく、それはどのアフリカン・アメリカンにも言えたことで、西へ東へ移動を余儀なくされ、プライス一家もアーカンソーへ引越しました。
その後、DV気質のある夫と離婚をし、シングルマザーとして2人の娘を育てることになりました。定収入を得るため、無声映画のオルガンを担当したり、ラジオのコマーシャル音楽をペンネームで書きました。その後、同じく黒人の音楽家の女友達と一家で同居を始め、友情を深め、お互いに助け合いました。
この環境から、フローレンスの作曲家としての地位が少しずつ確立されていき、大きな活躍へ繋がっていきました。1932年には、ワナメーカー財団音楽コンクール、ピアノ作曲部門でソナタ・イ短調が1位を、交響曲作品部門でも交響曲1番が受賞し、賞金として当時の価格で総額750USドルを獲得しました。このコンクールは、デパート業などで成功したロッドマン・ワナメーカー氏(Rodman Wanamaker)が黒人音楽家の登竜門として開設し、その数年前にも受賞したホルスタイン作曲コンクールより、さらに大規模なコンクールでした。
このようなコンクール受賞が彼女の作品が広まるきっかけとなり、4つの交響曲、ミシシッピ・リバー交響曲、バイオリン協奏曲、ピアノ協奏曲、合唱曲、ピアノソロの作品、ピアノ伴奏付きの声楽曲に加えて、黒人霊歌のアレンジ、室内楽など、多くの作品を書きました。
この中の交響曲第1番ホ短調は、シカゴ交響楽団の1933年6月のコンサートに起用されました。これは黒人の、そして女性の作曲家が、メジャーなオーケストラに起用された初の快挙、大変な栄誉でした。作品はヨーロッパのロマン派作曲家の影響が大きく、ドヴォルジャークの影響も見て取れ、黒人のスピリチュアル、民族音楽的要素が加わっています。この頃には彼女の活躍が黒人コミュニティで同胞の輝くシンボルとして、賞賛の的となりました。
ここに、1936年にデュボイス氏(W. E. B .Du Bois, 1868-1963)の残した言葉があります。元々は、北部の篤志家が提唱し、デュボイス氏によって広がりました。デュボイス氏は黒人の血を引く社会学者で、公民権運動の活動家として、その生涯を黒人の人権・地位向上に捧げました。
彼の言葉、"The Talented Tenth"とは、マイノリティのコミュニティでは10%の上層部の才能を伸ばすことによって、他の者たちに影響を与え、全体のレベル向上に繋がるというものでした。フローレンスの歯科医だった父親が、この高等教育の対象に選ばれ、その父の娘として育ったフローレンスが素晴らしい作品を残したことに対して、ヂュボイス氏は、「たった50年の間にこれほどの黒人の地位向上がなされたとは、歓喜に耐えない」と、最大の賛辞を送りました。
1933年には、当時のボストン交響楽団の大指揮者クーゼビッキーに、作品に目を通して意見が欲しいと、二度にわたり手紙を書きます。「私には二つのハンディキャップがあります、それは女性であること、そして黒人であること、世の中で類い稀な最悪の二つのハンディキャップです。でも、色眼鏡で見ずに私の作品を評価していただきたい」と始まる手紙でした。男性作曲家が当たり前に優位で、しかも白人男性が優位な社会で、大指揮者からどのような反応をもらえるかを待ちましたが、あいにく、返事の来る日はありませんでした。
この件については2014年、ニューヨーク・タイムズが、ボストン交響楽団は今もって彼女の作品を演奏していないと掲載しました。また、ニューヨーカー誌は2018年2月5日号で、イリノイ州のある家屋の屋根裏から楽譜を発見、それが、フローレンス・プライスの既に消失した作品と思われていたバイオリン協奏曲2曲などだったことを、記事にしています。この家はフローレンスが夏の間の避暑に使っていた家だったそうです。
彼女の評判は次第にヨーロッパ大陸にも到達し、1951年にはイギリスのオーケストラから作品依頼を受け、作品は完成させますが、実際の演奏会には駆けつけられませんでした。
1953年にもパリへの演奏旅行が予定されていましたが、持病の心臓病が悪化し、結局、自身がヨーロッパに上陸する日は来ないまま、1953年、シカゴの病院で生涯を閉じました。
その後、他の多くの女性作曲家同様、忘れ去られた存在でしたが、Samantha Ege により作品演奏がなされ、今年4月にはシカゴ交響楽団主催の、アフリカ系黒人女性作曲家の夕べが予定されています。
参考文献
New York Times, Aug. 8, 2014:"Great Divide at the Concert Hall"
https://www.nytimes.com/2014/08/10/arts/music/black-composers-discuss-the-role-of-race.html
Samantha Ege, "Florence Price and the Politics of Her Existence" in The Kapralova Society, A Jounal of Women in Music, Vol.16, Issue 1, 2018.
http://www.kapralova.org/JOURNAL.htm
The University of Arkansas Library, Florence Price.
https://libraries.uark.edu/SpecialCollections/findingaids/price.html#Information%20about%20Florence%20Beatrice%20Smith
The New Yorker, Feb.5, 2018: "The Rediscovery of Florence Price."
New York Times, Aug. 8, 2018:"Welcoming a Black Female Composer into the Cannon, Finally."
https://www.nytimes.com/2018/02/09/arts/music/florence-price-arkansas-symphony-concerto.html
Wikipedia in English: Florence Price.
F. Price,"Piano Sonata in E-minor," Schimer Edition. Editor R. Linda Brown.
この度の作品演奏は、ピアノソナタ ホ短調(1932年作)より第2楽章アンダンテ。ロンド形式、黒人霊歌の気だるさとロマン派のピアニズムを併せ持つ曲です。