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「私はそうは思わない」と思いながら『真昼の星空』を見ようとしていたい 鷹番みさご
2010.03.04 Thu
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<p>自分の生活、社会現象、社会思想…これらは、それぞれべつべつのものとして存在しているのではなく、密接にからみあいながら存在している。どんなパンツをはいているか、でさえ、文化や社会状況の網の目のなかにある。現在、自分が「当たり前」のようにはいているパンツは、他の文化や、100年前の日本のなかでは全然「当たり前」ではないものかもしれないのだ。<!–more–><br />育児・家事・家族・自分の生業など自分自身にかかわるあらゆることは、セクシズムやナショナリズム、レイシズムなしに語れない、そんな立場から、刺激的な論考を繰り広げる森巣博のエッセーを宇都宮さんは紹介してくださった。その森巣博は、<a href="http://amazon.co.jp/dp/4062879875">『越境者的ニッポン (講談社現代新書)』</a> のなかでふんどしもズロースも日本全国に広まったのはそんなに遠い昔の話ではなく、現在「日本の伝統」と呼ばれているもののほとんどが明治期に権力者によってつくられたものであることを指摘している。</p>
<p>日本だけでなく旧ソ連をはじめとした世界の国々の下着の歴史を調べながら、それぞれの国の「当たり前」が大きく異なっていて地域性に左右されること、そしてある国の「当たり前」が日本人にとってはにわかには信じられないようなものであったりすることを、思わずふきださずにはいられないほどいきいきと描いているのが、米原万里の<a href="http://amazon.co.jp/dp/4480424229">『パンツの面目ふんどしの沽券 (ちくま文庫)』</a> である。この本は、1冊まるごと、パンツ、ふんどし、生理用ナプキンなど下着の話であふれかえっている。</p>
<p>パンツのことが話題になる機会は日常の中ではほとんどないのではないだろうか。それは、パンツのことを口にするのが恥ずかしいから話題にしない、というより、自分の使っているパンツという現象があまりに「当たり前」すぎて特にパンツについて考える必要性を感じること自体がないためではあろう。パンツをはくという行為は、上半身にはシャツを着て、下半身にはズボンをはくという行為と同じくらい「当たり前」のように感じる。しかし、シャツの襟が丸襟かノーカラーか、ズボンは半ズボンか長ズボンか、七分丈か、ということについては話題になるが、外から見ただけではわからない下着はふんどしなのかパンツなのか、はたまたノーパンなのかは意外に話題にのぼらない。</p>
<p>この本の中では、第二次世界大戦後シベリアに抑留された日本人捕虜たちが、抑留先で便所の紙が与えられないことに困り果てるとともに、ソ連兵が用便後紙で尻をふかないことへの驚く様子がいくつも紹介されている。用便後にお尻をふかないので、旧ソ連軍の兵士たちが着ていたロシア風ブラウス・ルパシカの下端はひどく黄ばんでいたそうな…。</p>
<p>用便後に紙が与えられないということに戸惑った日本人捕虜のなかには、隣のトイレで用を足したロシア兵のウンチを観察し、ロシア人と日本人の長年の食習慣の違いが腸の長さを異なるものにし、その結果ウンチの質(ロシア人のウンチはうさぎのフンのように乾燥して比較的固いものなのですって!日本人のウンチは…皆さん、自分のモノを見ていただければ、おわかりですよね。それが日本人の「当たり前」のウンチかどうかはわかりませんが…)も異なるものになっているという科学的説明を加える人もでてくる。しかし、トイレで用を足したあとに紙でお尻をふかないことは、なかなか信じ難く「ソ連の一般人は、こんなことはないと思うが…」という一言がその説明に添えられていたりする。<br />そのほかにも、世界の様々な下着事情や下半身をめぐる観念の違いがこの本のなかでは描かれている。</p>
<p>実は、私も数年前トイレの時の作法を知って、とてもびっくりしたことがあった。なにかの本か雑誌に「トイレでお尻をふくときは、膣にばい菌が入らないように、膣からお尻の穴に向かってふくようにしましょう」と書いてあったのだが、私はいつもお尻の穴から膣に向かう方向でお尻をふいていた。説明を読むとたしかに納得するのだが、そうなると今度はなんで自分がお尻を逆方向からふいていたのかが気になる。母からお尻のふき方を教えられたり、母のお尻のふき方を模倣したからなのか、はたまた私のオリジナルなお尻のふき方なのか。そこで、私は思いきって母に「お尻、いつもどっち側からふいている?」とたずねてみた。すると、母も、私と同じ方法でお尻をふいていることがわかり、「理論的な説明にはわかるけれど、こっちのほうがしっかりふけた気がするのよね」ということで一致した。</p>
<p>お尻のふき方なんて、日常で話題にのぼることは私の今までの人生のなかで一度もなく、当たり前のようにお尻を後ろから前にふいていたが、考えてみればお尻をふく方向だけでなく、両脚の間から手を入れてふくのか、それとも腰をうかせてお尻のほうからふくのか、お尻をふく方法のバリエーションは様々考えつく。</p>
<p>日常生活では、「話すほどでもないこと」「当たり前のこと」としてほとんど語られることはないけれど、全く違う前提で生活している人と出会ったときに、自分自身の「当たり前」が「当たり前」ではないものとして眼前にあらわれてくる。考え方や価値観、理念など抽象度の高い部分を支えているものは、用便を足すときの方法だったり、つけている下着であったり、そんな日常の具体的な事象なのかもしれない。365日毎日繰り返されていくことは、身体化し、自分の考え方の様々なところに影響を与えずにはいられないだろうから。</p>
<p>米原万里は、9歳から14歳までをチェコスロバキアの旧都プラハにあるソビエト人学校で過ごし、その後通訳として、作家として活躍した。プラハ時代の教師や友達のことをもとに書かれた、<a href="http://amazon.co.jp/dp/4043756011">『嘘つきアーニャの真っ赤な真実 (角川文庫)』</a>や<a href="http://amazon.co.jp/dp/4087478750">『オリガ・モリソヴナの反語法 (集英社文庫)』</a>は、旧共産圏の人々が時代に翻弄されながらも生きていくなかで、どのように考え、どのように行動し、そしてどのように人生を歩んでいくことになったのかが、なんとも切なく、苦く描かれた秀逸な小説である。</p>
<p>長編小説家としての米原万里の作品もオススメだが、先ほどご紹介した<a href="http://amazon.co.jp/dp/4480424229">『パンツの面目ふんどしの沽券』</a> のような短文もイチオシである。ロシア流の小咄のエッセンスがふんだんにちりばめながら、米原が文化や思想を観察し、自分の眼と自分の頭で現実を読み解いて自由に筆を走らせている短文集やエッセー集は、どのように現実を見つめ、人間を理解しようとするか、そしてどのように自分はその現実を考えるか、世相に踊らされずに「自分の頭で考える」姿勢に貫かれている-しかも、遊び心を忘れずに-からである。</p>
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<p>たとえば、米原万里の<a href="http://amazon.co.jp/dp/4122044707">『真昼の星空 (中公文庫)』</a> をあげてみよう。この本では、イソップ童話の「北風と太陽」の説話に例えると、崩壊する前のソ連の言論統制は北風型のやり方である一方、日本やアメリカでおこなわれているマスコミを通しての世論誘導は巧妙な太陽型のやり方であると指摘している。そして、日本やアメリカの人々がマスコミの情報操作の結果であるとは露とも思わず、世論誘導に導かれるまま、さして必要もない商品を次々と購入し、テレビのキャスターや新聞の論調を自分の意見のように反復していると喝破する。<br />そして、北風型のやり方が人々の反発や抵抗を呼んで長続きしないのに対し、太陽型のやり方ではその存在さえしられないままに進められていく場合が多い分だけ長続きしそうであり、「魂の自由のためには、見せかけの自由よりは、自覚された束縛の方がいいのかもしれない」と結んでいる。</p>
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<p><a href="http://amazon.co.jp/dp/4122044707">『真昼の星空』</a> の姉妹版<a href="http://amazon.co.jp/dp/4122044073">『真夜中の太陽 (中公文庫)』</a> では、私たちの日常生活での圧倒的多数の言動はオートマチズムに基づいて律されていることを指摘したうえで、「政治的対策を講じること=公共事業をすること」という思考のオートマチズムが染みついてしまっている当時の与党国会議員の例をあげている。サッカーにおけるオートマチズムを推奨するサッカーの神様ジーコの「叩き込むのは、非の打ちどころのない正しい型でなくてはいけない。間違った型を習得すると修正するのに、身につけたときの10倍のエネルギーを弄するからね」という言葉で締めくくられているエッセーは皮肉と警句に富んでいる。</p>
<p>メディアから流される情報は、そもそもなにを報道し、なにを報道しないかというそのスタートの部分からメディアによって主導権を握られているものである。また、人が所属する集団には多くの「当たり前」が存在しているが、その集団の「当たり前」を前提として立てられた推論は、その前提自体が適切でなかった場合に致命的なものとなる。社会や所属集団にあふれる情報や慣習を、自分の思考のフィルターを通さず、そのまま自分の意見にしてしまうことのあやうさを米原は問題提起し続けてきたように私は思う。</p>
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<p>さて佐野洋子は、<a href="http://amazon.co.jp/dp/4480031537">『私はそうは思わない (ちくま文庫)』</a> で、「私は他人のお母様であろうと自分のお母様であろうと、『私はそうは思わない』ことは思わない人だったのだ」と述懐する。そして、「私はそうは思わない」というのは、「こう思う」というのとは少し違って、その少しの違いが大きいというのである。<br />そんな佐野が胆石の手術のために注射を受けたとき、今まで感じたことのないような幸福感つきあげられ、佐野は「私の人生完璧だった」と感じてしまう。しかし、手術後、「私の人生完璧だった」と感じたことは非常に不遜なことであり、注射の薬は自分の人生を冒とくした、とふりかえる。そして「あの不自然で完璧な悦びを知ったから、私はどんな時も、どんなささいなことも、私が私の力で感じる事を有難いと思う」と言っている。まことに、佐野は「私」を生きる、そんな人なのだ。</p>
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<p>そんな母親のもとに生まれた息子も「僕はそうは思わない」と思う子どもであったようだ。エッセー集<a href="http://amazon.co.jp/dp/410135412X">『がんばりません (新潮文庫)』</a> では、みにくいあひるの子が美しい白鳥になる、アンデルセンの童話「みにくいあひるの子」を佐野が息子に読んでやると、「なんで、白鳥があひるよりいいんだよ」ともの申す。「そんな考え方はあひるに悪い」、「あひるはあひるとして立派に生きていけばいい」と息子は母親に訴える。まことに、この親にしてこの子あり、である。</p>
<p>佐野洋子の本を読んでいると、「うんうん、わかる」とうなずきながら、にやにやしてしまう。「私はそうは思わないと思っても、世の中の人はそう思うのかもしれない」と思ってしまう子どもだった私は、今や立派な(?)「私はそうは思わない」人になっている。自分でも面倒くさいし、まわりの人も面倒くさく感じているだろうが、やっぱり「私はそうは思わない」のである。私は、米原万里のように語学が堪能でもなければ、歴史や政治に対する造詣も深くはない。しかし、「私はそうは思わない」ことは、思想信条という大きな話だけでなく、日々のあらゆることに対する認識や行動の軸になり、それが私を支えている。</p>
<p>米原万里の<a href="http://amazon.co.jp/dp/4122044707">『真昼の星空』</a>は、「目に見える現実の裏に控える、まぎれもないもう一つの現実」の比喩として「昼の星」という言葉を掲げたロシアの女流詩人オリガ・ベルゴリツに依ったものである。<br />米原は、オリガ・ベルゴリツが「普通の目には見えないものよ、それゆえにあたかも存在しないものよ! わたしを通して、わたしの魂の奥底の、もっとも澄み切った薄暗がりを背にして、あらん限りの輝きを放ちながら万人の目に見えるものとなるがいい」という言葉を引いて、ものを書くときはこうありたいと念じている。</p>
<p>たしかに、「昼の星」の存在を見ようとしていくことは、体制に隷属するものとしてではなく、人間として生きるための必須要件であろう。そしてそれを伝えていきたいと思うことも当然であろう。<br />しかし、「昼の星」を万人の目に見えるものにしたいという願望は、不遜な啓蒙主義につながる危うさもあわせもつ。(米原のバックグラウンドも考慮する必要はあるが)「昼の星」を万人のもとに明らかにしようとするとき、その「昼の星」は、万人にとっての「昼の星」であるとはかぎらないのだから。</p>
<p>一方、佐野洋子が自分の力で感じる事を大切にするとき、それは必ずしも他者を啓蒙するためのものではなく、「私」が「私」でいるために、自分の力で感じる事が重要だと言っているように思う。そして、それは必ずしも私生活主義に埋没するものでもない。<br />佐野は、「私を救ったものは、『私はそうは思わない』という素直でないものだった様な気がする」という。「私はそうは思わない」というスタンスをとることは、同時に他の人の「私はそうは思わない」「僕はそうは思わない」というスタンスを尊重することを要請する。実は「私はそうは思わない」と表明することのできるようなコミュニケーションのあり方が、多くの人と共に生きていく術となるのではないだろうか。</p>
<p>ま、そう言いつつも、佐野が「生涯おめえという強え味方があったのだなあ」と云える存在は「ふとん」であるというように、私にとってもホームはふとんである。ふとんは、自分が情けなくて、自信がなくなったり、めそめそしたり、疲れてしまった時も、なにかをやり遂げた時も、私にとっては帰るべき場所、強い味方だ。あんまり肩ひじはらず、公的な自分だけでなく、プライベートで情けない自分も同時に足場としながら、「私はそうは思わない」と言い続けていたいなあ。</p>
<p> </p>
<p><a href="http://wan.or.jp/book/?p=216">次回「排泄系トークのすすめ。」へバトンタッチ・・・・つぎの記事はこちらから</a></p>
カテゴリー:リレー・エッセイ
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