書 名:『家父長制と近代女性文学』
著 者:長谷川啓
発行年:2018年10月
発行所:彩流社
よく知られるように、「個人的なことは政治的である」とのテーゼは、第二波フェミニズムを特徴づける主要な発見であった。第二波フェミニズムは、それまで個人的な領域として不問に付せられてきた恋愛・セクシュアリティ・夫婦関係等々における男女の非対称の問題を、社会的・構造的な権力関係として批判と分析の俎上に乗せてきた。
だが、このテーゼが人口に膾炙する、ずっと以前から、女性作家たちは、身を削るような自己洞察を繰り返しつつ、親密な関係にまで根深く侵入してやまない、「イエ」制度の圧力や、男性による女性支配の実態を告発してきたのであった。本書は、こうした女性作家たちの苦闘の軌跡を掘り起こし、跡付けたフェミニスト文学批評の力作である。
本書は、樋口一葉から円地文子に至る9人の作家について、著者がすでに発表した20の論文を、発表順ではなく、作品の内容に即して、Ⅰ近代家父長制への抗い、Ⅱ社会変革への挑戦、Ⅲ戦争の時代と終わりの惨劇、Ⅳ老いの創造力の4部に分けて配置し、時代の変化とともに、作家たちの関心がどのように変化していったのかがわかるように構成してある。取り上げられた作家と作品、またそれに対する著者の分析は、それぞれ興味深いが、字数の関係で、ここでは、各時期で重点的に論じられている3人の作家分析を紹介する。
第Ⅰ部の中心をなすのは、田村俊子論である。著者によれば、俊子のデビュー作『あきらめ』にすでに「フェミニズム意識の出発」がみられるが、『青鞜』創刊号(1911年)に掲載された『生血』によって、「女性の新しい自我のかたちを『男女両性の相剋』関係の中で追及し始めた」。俊子の作品中、著者が最も評価するのは、1925年に発表された『彼女の生活』である。ここでは、イエ制度に批判的な新しい女と男のカップルが、結婚生活を始めてしばらくすると、「男は外、女は内」の性別役割分業の罠に陥り、「新しい女」であったはずの主人公自身が「愛」と「性差意識」に絡み取られていくプロセスが克明に分析されている。これは、俊子が自身の夫婦生活を凝視することを通じて、戦後にまで通じる、結婚制度下におけるジェンダーの仕組みを「克明かつ執拗に追求した」作品だと言える。後に、俊子は、妻子ある男性と恋に落ち、それぞれの連れ合いと別れてバンクーバーに旅立つ。「田村俊子は、文学上でも実人生でも、家父長制秩序を破り続けた『新しい女』だった」と、著者は評価する。
第Ⅱ部では、宮本百合子を柱に、社会変革に挑戦した作家たちの足跡を追っている。
百合子といえば、日本版「人形の家」に擬せられる、夫権に囲まれた鳥籠のような結婚生活からの脱出物語を綴った『伸子」がまずは思い浮かぶ。だが第Ⅱ部での著者の関心は、「プロレタリア運動に参加し、戦争中非転向を貫いた唯一人の女性作家」としての百合子であり、作品的には、「人形の家」を出た後のノラの模索ともいうべき、『二つの庭』と『道標』に向けられる。これらの作品は、百合子が、離婚後の一種の避難所として湯浅芳子との同棲生活を選んだものの、やがて女同士の生活の閉塞状況を感じ、ソビエトで社会主義という人生の道標に出会う過程を描いた自伝的小説である。社会主義体制の崩壊と社会主義思想の失墜による、プロレタリア文学一般への関心の低下に加えて、芳子の側から百合子像を描いた『百合子、ダスヴィダーニヤ』(沢部ひとみ)の刊行と映画化の影響もあって、近年、「百合子評価は下がる一方」である。この状況に抗して、著者は敢えて百合子文学の再評価の必要性を説いている。
第Ⅲ部「戦争の時代と終わりの惨劇」では、著者が長年取り組んできた佐多稲子を軸に、女性作家たちが戦争に巻き込まれていった過程を、作品に表現された作家たちの個人的状況と、国家による動員という社会的圧力との相互作用の中で分析している。稲子は、日本プロレタリア文化聯盟(ナルプ)を基盤に、『キャラメル工場から』を初め、農民や女工の貧困、労働争議などをリアルに描出する作品を書き続けた作家であり、活動家であった。だが、厳しい弾圧によって1934年にナルプが解散に追い込まれた上に、稲子は私生活においても、夫窪川鶴次郎とカナダから帰国した田村俊子との情事に苦悩したことが、『くれない』などの作品に見て取れる。
このように、公私ともに悶々としていた時期に、稲子は軍部からの要請に応じて、1937年から42年までの間に3回も、中国戦地慰問に出かけた。当時、林芙美子、真杉静枝、吉屋信子ら、多くの女性作家たちが競って戦地に赴いて兵士を慰問し、帰国後は「銃後を守る人たち」を鼓舞する役割を担ったが、稲子も例外ではなかった。著者は、稲子の戦争加担の原因に、「作家としての自己実現欲求」「庶民の悲劇への同情」「大衆からの孤立感の解消」があったと解釈する。後から振り返れば今が「戦前」と位置付けられるかもしれない懸念がある現在、稲子を初めとするフェミニスト作家たちの足跡から、受け取るべき教訓は多い。
本書の最後第Ⅳ部は、「老いの創造力」と題して、円地文子に関する1論文が配されるのみである。多くの女性にとって、子どもを産むか産まないか、子育てをどうするか等々の、ライフステージ上の大問題がすっぽり抜けて、夫婦関係における「男女の確執」と、社会変革や戦争との関わりから、いきなり「老い」の話に飛んで終わってしまうことに、正直なところ、肩透かしの感がしないでもない。
とはいえ、日本国憲法体制下で育ち、青年期にマルクス主義への傾倒と確執を経験したであろう著者の問題意識に、私は同世代の人間として深い共感を覚える。本稿は、書評という性格と限られた字数とのゆえに、本書の骨組みだけを単純化して整理したが、このように整理してしまうことで、各作家や作品に対する、著者の思い入れや、解釈の見事さを伝えることは到底できない。小説のあらすじを知っても、小説を読んだことにならないように、本書の書評を書き終えても、隔靴掻痒の感を拭いえない。この書評が、本書自体、さらには本書が取り上げている作品自体を読むきっかけになることを、心から願っている。
◆いのうえ・てるこ
和光大学名誉教授
主著 『新 女性学への招待』(有斐閣)、新編『日本のフェミニズム』全12巻共同編集(岩波書店)、『女性学事典』共同編集(岩波書店)