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滑稽で愛しい「生きる」といういとなみ 鷹番みさご

2010.06.11 Fri

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<p>「生きる」ということをつきつめて考えていくとどこに行き着くのでしょうか?死?それとも笑い?富山さんのエッセイでは、ロラン・バルト、板尾創路が親密な他者の「死」というものを考える作業を通じて、死と共存する生のあり方を探りとっていく様子が紹介されていました。「喪の作業」というモチーフにも強く惹かれたのですが、今回は富山さんの「生と死と笑い」というモチーフを「生」のほうに引きつけて、引き継いでいきたいと思います。<!–more–></p>
<p><br class="clearall" /><br />私にとって、「生きる」ということを考えに考え続け、そして書き続けた作家といえば、すぐに坂口安吾が思い浮かんできます。<br />安吾といえば『堕落論』</p>
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<p>。「人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。それを防ぐことはできないし、防ぐことによって人を救うことはできない。人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外のなかに人間を救う便利な近道はない」というあまりにも有名な一節においても、「生きる」ということがどっしりと据えられています。</p>
<p>宮沢章夫は『わからなくなってきました』のなかで、安吾の「僕はもう治っている」という小文を紹介しています。神経衰弱と睡眠剤の中毒で東大病院に入院した安吾が「僕はもう治っている」と読売新聞紙上で宣言したのがこの小文です。宮沢章夫は、この小文の中の安吾の文章につっこみをいれ「これを目にした当時の人たちも、何言ってるんだあのばかと感じたのではないか。そう考えると、いよいよこの言葉は魅力的である」と結んでいます。</p>
<p>安吾は<a href="http://amazon.co.jp/dp/4480024670">『坂口安吾全集7巻(ちくま文庫)』</a>に収録された「わが精神の周囲」「精神病覚書え書」でも、精神の病にかかったときの自分をふりかえっています。<br />「わが精神の周囲」によれば、安吾は21歳のときに「人間は4時間ねむればタクサンだという流説」を信仰して、夜の10時に眠り朝の2時に起きる生活を1年続けているうちに神経衰弱になり、妄想におそわれるようになったときに、妄想の起きる余地がないよう語学に没入して、病気を征服することに成功したようです。でも、「21の経験によって、神経衰弱の原因は睡眠不足にありと自ら断定して以来、もっぱら熟睡につとめ、午睡をむさぼることを日課としたから、自然に病気を封じることが出来たのかも」なんて述懐しているのを読むと、「なんじゃそりゃ!」とずっこけてしまいます。勝手に神経衰弱の原因を断定し、午睡をむさぼり、神経衰弱を防ぐなんていう論理を示しているけれど、安吾って、本当に真剣なんだか、ばかなんだか…きっと、両方なんだとは思いますが。</p>
<p>「精神病覚え書」の中ではこうまで述べています。</p>
<p>僕個人の場合であるが、患者としての僕が痛切に欲しているものは、ただ単に健全なる精神などという漠然たるものではなく自我の理想的な構成ということであった。<br />大体、健全なる精神とは、何のことだろう。どこに目安があるのだろう。ある限度の問題かもしれないが、そんな限度は、患者としての僕にとって、問題ではなかった。<br />僕はその時、思った。精神病の原因の一つは、抑圧された意識などのためよりも、むしろ多く、自我の理想的な構成、その激烈な祈念に対する現実のアムバランスから起るのではないか、と。<br />僕が、恢復後、精神病者を視察して得た結論も、概して、そうであった。</p>
<p>・・・そこまでわかってて、なんで何度も神経衰弱になっちゃうの!?とつっこみたくなってしまうのは私だけでしょうか。冷徹に自分を観察し、人間を観察し、理解し、分析しようとする。しかし、冷徹に事実を見つめながらも、結局なんだか目茶目茶なところに陥ってしまうのが、安吾なのです。安吾を見ていると「もー、なんだかなー」と思いつつ、すごく愛しい気持ちになってしまいませんか?</p>
<p>荻野アンナは<a href="http://amazon.co.jp/dp/4022640731">『アイ・ラブ安吾 (朝日文芸文庫)』</a>のなかで、安吾は「物事の本質しか眼中にない“本質過多症”」であり、「『目茶々々』のまっただ中で仁王立ちの男。しかしその眼は科学者のごとく冷徹である。書くことは生きることだ、自分の人生をつくらなければならぬ、と叫び続け、目茶々々そのものから実質的“論”を搾り出している」「万人の狂気をともに生きる醒めた狂者」と称しています。</p>
<p>荻野氏の指摘どおり、安吾の文章からは、「生きる」ということに対する真剣さがあふれていて、それと同時に生きるということの情けなさや滑稽さに対する冷徹な自覚も存在していて、もうそれが「生きる」という人間のいとなみそのもののように感じます。そして、安吾を読んでいると、「生きる」といういとなみの滑稽さと愛しさが胸にあふれだしてきます。その真剣さ、その滑稽さを感じると、こう叫びたくなってきます。アイ・ラブ安吾!</p>
<p>『堕落論』に所収されている「不良少年とキリスト」の中で、安吾は自殺してしまった友人太宰治のことを書いています。安吾によれば、「太宰は、M・C、マイ・コメジアン、を自称しながら、どうしても、コメジアンになりきることが、でき」ず、フツカヨイ的であったといいます。そのような太宰のあり方に対して、「フツカヨイの、もしくは、フツカヨイ的の、自責や追憶の苦しさ、切なさを、文学の問題にしてもいけないし、人生の問題にしてもいけない」とばっさり切ってしまいます。そして、「人間は生きることが、全部である」「生きることだけが、だいじである」と繰り返し、「生きてみせ、戦いぬいてみなければならぬ」と安吾は宣言しています。<br />この論考は、安吾が自ら死を選んでしまった太宰を哀惜するとともに、自分は生ききってみせるという決意を示した文章だと言えるでしょう。</p>
<p>「生きる」ことを語る安吾を取り上げたつもりが、結果的には友人の死を悼む「喪の作業」につながっていってしまいました。究極的に、生を考えるということは、死を考えるということであること、とでもいうことでしょうか・・・。</p>
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<p><a href="http://wan.or.jp/book/?p=282">次回「生と死の境に」へバトンタッチ・・・・つぎの記事はこちらから</a></p>
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カテゴリー:リレー・エッセイ