新年となれば、やはり年賀状です。昨今はmailやSNSで新年のあいさつをする人も増えたようですが、でも、まだまだ年賀状は健在です。
大学で教えていたものですから、卒業生からの年賀状も毎年うれしいもののひとつです。簡単に近況が書かれたものから、「あ、卒論で悩まされた学生だった」、「もう、ふたりのお父さんになったんだ」など、一瞬で、その学生たちの顔や表情を思い出せるありがたい情報源になっています。
そうした中に、送り主を書くところに、見知らぬ男性の姓名が書かれ、その隣に女性の名前が書かれているものが混じっています。女性の名前の下に(旧姓○○)と記されていて、「あ、○○さんだ、彼女結婚したんだ」と分かる仕組みになっています。また、もう10年以上も姓を「××(○○)」と、現在の姓××と旧姓○○を重ねて書いてくる女性もいます。
そういう( )つきで書いてくる男性は、まだひとりもいません。女性に限ってみられる姓の書き方です。
これは、まさに、夫婦別姓が認められない日本社会の反映です。(旧姓○○)と書いてきた女性のひとりひとりに、ドラマと葛藤があったことがしのばれます。それを書く背景には、夫の姓を名乗る喜びを秘めている人もいるでしょうが、それよりは、本来の姓に愛着があって変えたくなかった人、大勢に従うものと思って変えた人、夫と何度も話し合って夫の姓の方を変えられないかともがいた人、制度が整うのを待っていたが、ついに諦めて変えた人、それはそれはさまざまな悩みや闘いがそこにはあるのでしょう。毎年、旧姓の(○○)と姓を重ねて年賀状を書いてくる人は、いつもいつもその理不尽さへの怒りや抗議を持ち続けているということかもしれません。
もちろん、結婚したかどうかを年賀状で知らせなければならないということもないので、(旧姓○○)がなくて、本来の姓名で書いてくれば、こちらはその人だとわかります。(旧姓○○)と書きたくなければ書かずに本来の姓名で書いてきても、受け取る方は、それはそれでじゅうぶんうれしいのです。
でも、年賀状というのは、仕事関係のやりとり以外では、かなりプライベートな情報を伝えあう媒体でもあります。1年に1度だけであっても、いや、1年に1度だからこそ、互いにその近況を知らせ合える貴重な媒体です。だから、結婚したり子どもが生まれたりというビッグイベントのお知らせは、年賀状に欠かせないアイテムでもあります。
そうなると、やはり旧年に結婚した女性は、送り主である自分を名乗るのに、新しい配偶者である夫の姓名に添えて名前だけを書き、下に(旧姓○○)を書き加えなければならなくなります。本来の自分の姓は無残にも抹殺され、名前の下にそっと( )つきで残すしかないという悲しい現実に直面します。夫の姓と並べて自分の本来の姓を記すことができたら、どんなによかったかと嘆きながらの(旧姓○○)記名であるかもしれません。
(旧姓○○)は( )に入っているいわば補足情報で、大したことではないと思われるかもしれませんが、いえ、そんなことはありません。100人に数人は結婚で姓を変える男性もいるので皆無とは言いませんが、(旧姓○○)と書かなければならなかったり、そのために葛藤を強いられ苦渋の選択を迫られたりする男性はごくごくわずかです。女性が(旧姓○○)と書くのは当たり前、その背景に深刻な悩みや葛藤があることは想像もしない、男性には強いられないことが女性には強いられて、それが問題とも思われない。残念ながら日本は、そういう社会なのです。だからジェンダ―ギャップ指数が121位という恥ずかしい汚名を頂戴しているのです。
(旧姓○○)はわずかなメッセージかもしれませんが、見過ごせません。新年だから、多少の怒りはあっても抑えておこうと、達観するわけにはいかないのです。
本年もおつきあいのほど、よろしくお願いいたします。
2020.01.01 Wed
カテゴリー:連続エッセイ / やはり気になることば