今月は、フランスのジェルメーヌ・タイユフェール(Germaine Tailleferre ) をお送りします。1892年にパリ近郊のサン・モール・デ・フォッセに生まれ、1983年パリで91歳の大往生、数週間前まで作曲にいそしんでいました。

 母親が早くにタイユフェールの才能に気がつきました。一方で父親は、娘の音楽教育に一切の興味を見せず、むしろ「女に音楽なんて…売春婦と同じだ。俺のように日々労働者として働くことこそが仕事なんだ」と言い放つ人物でした。母親は夫に早くから失望しており、その分、子供たちの教育に心血を注ぎました。若くして本名のTaillefesseからTailleferreに改名したのは、そういう父親を嫌っていたのが理由に挙げられています。

 最初は母親の下で学び、メキメキと才能を表し、12歳でフランスの名門パリ音楽院へ入学します。90歳時の『ニューヨーク・タイムズ』のインタビューで、「思い返せば、5歳で初めての曲を作りました。シューマン風サウンド。でも音符が書けなかったから、頭の中で音が鳴っていました。今でもメロディは覚えています。幼い私には大事件だったのです」と語っています。母親は夫の逆鱗に触れないよう、夫が仕事に出てから練習をさせたり、出かけた途端に音楽院に連れて行くなど、心を砕きました。父親は娘が頭角を表せば表すほど世間に自慢し、一方で娘の学費は拒み、タイユフェールは14歳ですでに生徒を教えて学費の足しにしました。

         フランス6人組

          6人組を描いた絵


 当時のパリ音楽院は作曲家G・フォーレが学院長でした。タイユフェールはピアノも作曲も素晴らしい出来で、試験の際は並み居る審査員を驚かせたエピソードが残っています。18歳時のハープのための曲が、最初の作品と言われています。M・ラベルには個人レッスンで作曲を学び、「ぜひローマ大賞に応募すると良い」と勧められ、25歳でE・サティに作品を聴いてもらい、サティをして「作曲界の私の娘」と言わしめました。同級生の錚々たる才能たちと勉学に勤しみ、モンマルトルやモンパルナスにも繰り出し、アーティスト仲間と青春を謳歌しました。妹は後年、その中の彫刻家と結婚に至ります。

 E.サティから広がった人脈は、作曲家集団「フランス6人組 Les Six 」の誕生に繋がります。タイユフェールは唯一の女性メンバー、後の5人はデゥレ、オネゲル、ミヨー、ジャン・プーランク、オーレックでした。6人全員での活動はとても少なく、オネゲルを除いたメンバーで、ジャン・コクトー依頼のバレエ音楽「エッフェル塔の花嫁たち Les mariés de la tour Eiffel」を共作しました。全1幕10曲の構成で、1曲ごとに作曲家を変え、タイユフェールは6番と8番を担当。Youtubeの原語検索で音源を聴くことができます。

        チャップリンとタイユフェール


 1925年から26年には、アメリカ東海岸を3度訪問しました。26年12月にアメリカでラルフ・バルトンと電撃結婚をします。バルトンは人気のある風刺作家で、雑誌『ニューヨーカー』の創刊当時から編集者としても関わりました。夫を通してニューヨーク界隈の音楽家や芸術家たちに出会い、日々は活気に満ちていました。夫の友人だったチャーリー・チャップリンにも知遇を得ました。当時ボストン交響楽団を率いていた指揮者クーゼビッキーは、彼女のハープ協奏曲を定期公演に起用しました。

 この結婚は3年半で離婚に至りました。3ヶ月後に書いた「声楽とピアノのためのフランスの6つの歌(Six chansons françaises for Voice and Piano)」は、歌詞の分析から、”夫の暴力から流産に至った自分を癒す作業”と捉える専門家が著書を出版しています。夫は妊娠中の妻のお腹めがけて銃で威嚇し、胎児を殺したい、でも君の命は守ると言い放ち、その3日後に彼女は流産をしました。夫はその後も銃の威嚇を続け、タイユフェールは逃げ惑うことだけが全て、友人たちに匿われ生き延びました。

 夫は、チャップリンが映画「サーカス」に彼女を起用しようとすれば、本人の意思も聞かずに勝手に断るなど、才能溢れる妻を嫉妬し、家に閉じ込めて料理だけをさせようとしました。もしタイユフェールが音楽を担当していたら? 映画の印象も一味違ったことでしょう。

 また、抑うつ的な感情に支配されていたため、名だたる指揮者が彼女の作品をコンサートにかけるチャンスをみすみす逃した経験もありました。タイユフェールは、夫の言動に左右されていたと後年自らが語っています。夫はコントロールを失うほどの怒りと優しく純粋な愛情を見せる、明らかな二面性を持ち合わせていました。

 離婚後は、感じるがままに曲を書き自由を満喫し、もう結婚はいいわと思っていましたが、子供が欲しかったことから、離婚から2年後、今度はフランス人の若き弁護士と結婚しました。ロマンティックで愛に溢れていたのは束の間、この夫も彼女の手書き譜にインクをぶちまけ、妻のみならず幼子にも手をあげる人だったのでした。その後、夫は精神病を患い、最後は結核病棟へ入院。離婚は50年代初めに成立しました。

 研究者は、3人の男性――父親から始まり、2人の狂気に満ちた夫と暮らした人生を、もし違う環境に生きたなら、どれほどさらなる素敵な作品を残したことだろうか、と記述しています。2人の夫を選んだのは彼女自身ですが、しかしながら当時のフランスは、父親の家庭での在り方も含め、いかに男性は感情のおもむくままの言動が許容され、一方で女性に降りかかる困難は当たり前とされる社会だったことかも窺い知れます。

 前述の『ニューヨーク・タイムズ』の記事には、当時、6人組中存命の最後のメンバーだったオーレックの言葉として、「彼女はとても自立心に溢れた人、若い時から今に至るまで音楽上で語る「ことば」はなんら変わっていない」とあり、ミヨー夫人は、「堅苦しさが微塵もなく、単純明快なお人柄。手先も器用で、お料理も裁縫も何でもこなす方。勇気があって気品高いのがタイユフェールです」と語っています。

晩年を過ごしたRue d'Assas 87にあるメモリアル・プレート


 孫娘と共に猫や犬と暮らすパリのアパートで、タイユフェールはインタビューに、「皆さんご存知の通り、私の人生はなかなかハードでした。ただ、自らそれを語ることを良しとしてきませんでした。なぜ作曲活動を続けてきたか? それは明快、収入の糧だからです。作品が売れれば、コミッションが入りますから。そしてハッピーな音楽を書くことで、自らを解放してきました」と答えています。最晩年まで闊達に子どものバレエクラスのピアノ伴奏に出かけ、インタビュー翌年、83年に亡くなりました。

 作品はピアノ小品が多数あり、プーランクにも通じる音楽性です。加えて室内楽――バイオリンとピアノのソナタ、ピアノ三重奏、ピアノ協奏曲、ピアノとオーケストラのためのバラード、ハープ協奏曲、歌曲、フルートとピアノのパストラーレ、ウインドアンサンブルの作品、バレエ音楽や映画音楽と、生涯を通して絶え間なく作曲し続けました。まことにフランスの近現代の響き、軽やかなリズムも素敵です。

 ここまで本連載では30名余りの女性作曲家についてのエッセイをお読み頂いてきましたが、なかでもタイユフェールの音楽性は、比類なきトップクラスの才能と感じました。さらなる認知が広がることを願い、作品演奏をしていきたいと思います。

演奏は、①「即興曲 Imprompts」1909年作と、②「ドビュッシーを讃えて Homage of Debussy 」は1918年没のフランスを代表する作曲家へのオマージュで、1920年作です。


出典/References
https://fr.wikipedia.org/wiki/Germaine_Tailleferre
Tailleferre: Chamber Music and Piano Music
https://www.youtube.com/watch?v=2yT7NNvcA0I
https://en.wikipedia.org/wiki/Les_mariés_de_la_tour_Eiffel
Martha J. C. Hawk, Into the Light:A Study of Women Composers
https://www.etsu.edu/academicaffairs/scs/mals/documents/hawk_project_paper.pdf
Timothy Diovanni, "Germaine Tailleferre’s Malicious Men" in Women’s Philharmonic Advocacy
https://wophil.org/featured-guest-blogger-germaine-tailleferres-malicious-men/
"One of ‘Les Six‘ still at work", New York Times, May 1982
https://www.nytimes.com/1982/05/23/arts/one-of-les-six-still-at-work.html

 


 2020年11月24日の北海道新聞、文化面「談」に、以下の石本さんのインタビュー記事が掲載されました。

 北海道新聞社許諾番号D2101-2107-00023248

 この記事は、石本さんからご提供いただき、ご本人の同意の上掲載しております。