五輪をやったらそうなると、だれもが恐れていた爆発的感染が現実になっています。五輪が開かれて、人々の気が緩んで感染者が増えたと、専門家も言っています。五輪開催による医療崩壊の罪は、たとえ金メダルが多かったとしても、決して相殺されるものではありません。連日、重症患者が増えていて命の危険にさらされている人が増えていること、そして毎日毎日亡くなっている多くの命は、医療崩壊の結果であることも明らかです。

 そして、感染して治療を受けたくても、様子を見ましょう、まだ軽症ですから、と医療機関にかかれない人、急変して救急車を呼んで、その救急隊員がなん十か所も頼んでも入院できない人、こういう「自宅療養者」が関東だけでも2万人に及ぶのです。

 この「自宅療養」ということば、違和感ありませんか。おかしいと思いませんか。気になっている人は他にもいました。8月24日の朝日新聞で中島岳志さんは、

 「「自宅療養」とは、一般的には症状が安定した時に病院から出て自宅でゆっくり静養する、という意味でしょう。…今回は「入院できません」という一種のトリアージ(治療順位の選別)で、「入院拒否」とか「入院謝絶」、あるいは別の言い方をすべきです。」

と言っています。また、8月27日の朝日新聞夕刊の素粒子欄は、

「自宅療養」と書いて「キミンセイサク」と読む。

と書いています。

 たしかに、実態とは違うことば遣いです。

 改めて、「療養」という語の意味を辞書で調べてみます。

 りょうよう【療養】病気治療のため、手当をし、体を休めること。「転地―」(『岩波国語辞典』8版)
 りょうよう【療養】〔病気を治すために〕手当てをし、からだを休め、栄養をとること。「病気―中の身/-所・―生活」(『新明解国語辞典』8版)
 りょうよう【療養】病気をなおすため、治療し、養生すること。「自宅で―する」(『広辞苑』7版)

 当然と言えば当然ですが、どの辞書も、病気をなおすために「手当てをし」「治療し」と言っています。

 いま、コロナウイルスに感染して、日本で「自宅療養」の境遇にある人たちはどうでしょう。コロナ感染症にかかったけれど、その病気を治すために病院にもかかれず、まして入院もできず、何の「手当て」も「治療」も受けられない人たちです。保健所がパルスオキシメーターを配ったり、電話で問い合わせたりする所もあるようですが、動脈血中の酸素を測る器具を置いて行かれても、電話でどうですかと聞かれても、それは治療でも手当てでもありません。家庭内に留めおかれて、手当てを受けられないどころか、他の家族に感染させる危険性が強い人もいるし、一人暮らしの人の場合は、手当てももちろん受けられないし、栄養を取ることもできない。だから自宅で「療養」する人ではありません。日本語として適切な言葉を探すなら、ちょっときつい言い方になりますが、「自宅放置者」「自宅留め置き者」ということになりましょう。

 戦後まもなく、「占領軍」を「進駐軍」と言い、「敗戦」を「終戦」と言ったように、厳しい現実をあいまいなことばでぼかすことはよくありましたが、今回の「自宅療養」も、その例に当たるでしょう。厳しい現実を正確に表すことばを避けて、家で「療養」しているんだからなんとかなるかもという、甘い期待を持たせる罪深いことばです。現実を直視したことばを使わないかぎり、事態はあいまいなまま押し流され、真の解決は遠くなります。

 医療が必要な人が医療も受けられず、入院もできないという、まさに医療が崩壊している現実を直視し、一刻も早く医療を必要とする人が医療を受けられるようにすることです。そのためには、これもいやなことばですが、「野戦病院」式の施設を作ることです。国際会議場でも展示場でも屋内体育館でもどこでもいいから、東京の真ん中で広い施設を開放して、ベッドを入れ医療スタッフを常駐させて、今すぐ、自宅に放置されている感染者を運び込むことです。恥も外聞もありません。「自宅療養」のようなごまかしのことばを使っている場合ではないのです。一刻も早く、一人でも多く、自宅に留め置かれている患者に医療の手を差し伸べ、救える命を救うことです。