生殖する人間の哲学: 「母性」と血縁を問い直す

著者:中 真生

勁草書房( 2021/08/20 )


 母親が子ども産んだという事実は、特別なことなのだろうか。それは母親が、父親や養親に優る根拠になりうるのだろうか。いやむしろ、産んだことと育てること、産んだこととその人が子どもにとっての一番の親であることは、切り離して考えるべきなのではないか。この問いが本書を貫いている。
 「親」とは、産むことや、血のつながりとは関係ないところで形成されうる。誰であれ、子どもを世話し、子どもと日々触れ合い、ぶつかり合う中で、徐々に「親」になっていく側面がある。しかも、より濃く「親」になったり、あるいは育児に疲れた時に「親」の程度をいっとき緩めたり、また子どもの成長とともにそれを薄めたりしうる……そんな流動的な「親」のあり方が考えられるのではないだろうか。
 そのような、本来流動的であるはずの「親」のあり方を固定してしまっているのは何だろうか。本書が注目するのは、「母性」という見方であり、またそれと連動した、母親と父親のあいだに、また生みの親と育ての親のあいだにはっきり境界線を引いて見る見方である。その「母性」の核にあるもの、あるいは母親と父親、生みの親と育ての親のあいだに決定的な境界線を引くその根拠となるものが、母親が「産んだこと」なのである。しかし、「親」であることを、産むことや血縁から切り離して考えることで、それは変わりうる。
 そのとき、何が変わるのだろうか。産んだ親と産んでいない親とのあいだの差異が決定的なものではなくなるだろう。それはひとつには、母親と父親のあいだの差異である。そしてもうひとつには、産んだ親と生物学的親である生みの親たちと、産んだ親でも生物学的親でもない育ての親たちのあいだの差異である。もちろん多様な差異は残るが、どこかにはっきりした境界線を引けるような差異ではなく、グラデーション様の、濃淡の差があるのみとなるだろう。
 このように、人々のあいだに、簡単に境界線を引いて見てしまわずに、じつは、濃淡をともないつつ連続してもいるのだと、そのつながっている基底あるいは根っこのところからも見ようとするのが、本書の一貫する姿勢である。

◆目次
第1章 「生殖」と他なるもの
第2章 生殖の「身体性」の共有――男女の境界の曖昧さ
第3章 「母性」の再考――「産むこと」に結び付けられているもの
第4章 新たな「母性」――産むことと、育てること / 母であることの分離
補章 事例から見る、産む(生む)ことと育てることの分離――新生児特別養子縁組、「赤ちゃん」ポスト、児童養護など
第5章 父親や養親の側から生殖を見る――間接性と二次性を越えて
第6章 産むことや血縁を超えた「第一の親」の拡大
終章 生殖にかかわる三つの境界の攪乱

なお、以下のアドレスで「序文」の全文をご覧になれます。
https://keisobiblio.com/2021/08/19/atogakitachiyomi_seishokusuruningen/

◆書誌データ
書名 :生殖する人間の哲学――「母性」と血縁を問い直す
著者名:中 真生
頁数 :320頁
出版社:勁草書房
刊行日:2021/8/30
定価 :3,520円(税込)