雨の日に機嫌がわるくなる赤ちゃんは多い。娘もそうだった。何をしても泣きやまず、バタバタと足を蹴り上げる。すると小さな足指に巻かれたセンサーが混乱し、モニターのアラーム音が鳴り続け、部屋の中は大騒ぎになる。ため息をついてセンサーをぺりっと剥がし、きょうは一日中だっこか、と娘を抱き上げ本棚に向かう。こうなったら何冊でも読んでやるつもりで、でたらめに絵本を取り出しては読み続ける。
そのうちに目に留まった一冊が、『最初の質問』だった。詩人・長田弘の問いかけに、伊勢英子の可憐な水彩画がうつくしい絵本。0歳児にはかなり早い内容であるのは承知で、引き込まれるようにページをひらく。読み始めると、静謐な哲学の世界が広がった。

問いと答えと、/ いまあなたにとって必要なのはどっちですか。

測定不能を知らせるモニターのエラー音が遠ざかり、波立っていた心が静かに凪いでいくのがわかった。

映画『帆花』の終盤、この絵本が思いがけず映し出され、4年ほども前のこの日のことがよみがえった。『帆花』は、生まれて間もなく「脳死に近い状態」と言われた西村帆花さんと、そのご家族・理佐さんと秀勝さんの日常を映すドキュメンタリー映画である。國友勇吾監督は、母親の理佐さんの著書と出合い、卒業制作としてこの映画を撮り始め、10年の歳月を経てようやく公開に至ったという。医療的ケアを受けながら育った自分の娘との日々を思い出しながら、上映館へ向かった。

映画は、オンライン講義のようすではじまる。西村家と大学の講義室をスカイプでつなぎ、画面に映る帆花さんを紹介してから、理佐さんは大学生に語りかける。
「しかし、これは大きな誤解です」。事前に書かれた原稿に沿って、はっきりと言葉を発していく理佐さん。画面の前の大学生を通過して、この映画を見ている私たちに対して、先制の揺さぶりをかけてくるシーンである。生きるとは、どういうことなのか。シンプルな問いが目の前に迫ってくる。

しかし、この映画はある答えを提示するというスタンスをとろうとはしない。ところどころで挟まれる國友監督からのインタヴューでは、先の講義とは一転してためらいがちに語る理佐さんの姿が映し出される。「……なわけじゃないけど」と繰り返し、断言することを避けるように、揺れる心情をそのままに話す理佐さん。常套句にはおさまらない、答えのない世界で、つねに問い続けているような家族の姿がそこにある。

そして、こうした家族の風景を撮影する側の存在も映り込んでいるのが、この映画の吸引力につながっている。話し続ける理佐さんが、ふいに「國友くんも前に言ってたけど……」とカメラの向こうの監督に語りかける。おずおずと、「ああ、はい」と応答する監督の声に一瞬どきりとすると同時に、問いを投げかけられているのは、観客の私たちでもあるのだということに気づかされる。この映画を通じて、撮る側も、見る側も揺れ動き、帆花さんの差し出す素朴で深遠な問いを、自分ごととして考え始めている。

とはいえ、どんな生活もシリアスなだけではやっていけない。考えてばかりいてもしかたがないとでもいうように、笑ってしまうような瞬間がたくさんある。この映画には、そうした場面が大事に切りとられ、輝いている。
たとえば、入学式当日の朝。理佐さんが帆花さんの身じたくをしていると、モニターのアラーム音が「ポン」と弾む。理佐さんは、「ふふ」とほほえむ。その自然な間合いには、会話するのと同じリズムがあり、二人のあいだには確かなコミュニケーションが息づいている。言葉ではない、形にはならないやりとりが日々の物語を紡いでいることを示すように、三つの手が楽しそうにふれ合う、こちょこちょ遊びのシーンで映画『帆花』は幕を閉じる。

パンフレットの最後には、最近の理佐さんの思いも記されている。帆花さんが生きるうえで浮かび上がってくる問題が、「医療・介護・教育など多くの分野にわたっている」ということを忘れてはいけない。いつか図書館で上映会を開いて、大学生たちと一緒にこの映画を観たいと思う。そして上映後には、『最初の質問』を読み、一緒に考えてほしいとも思う。

あなたにとって、/ あるいはあなたの知らない人びと、
あなたを知らない人びとにとって、/ 幸福って何だとおもいますか。

何を学び、どんな道を進むとしても、この問いは私たち自身のものであるのだから。

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映画『帆花』
東京・ポレポレ東中野にて公開中、ほか全国順次(2022年2月末時点)
公式サイト http://honoka-film.com/

筆/北村 咲