
女子大というのは、女子の大学のようでいて、実際には女子であることを忘れていられる場なのである。女子しかいないところには女子は存在しない。
大学院生のころ、女性ばかりの研究室のメンバーは学会の前日にはきまって「明日、女装してく?」「しなきゃだめかなぁ、やっぱり?」などといいあっていた。いつもはジーパン姿の私たちがスカートをはかねばならないかどうかの確認である。院生たちにとって学会は大人社会のマナーどおりに女子を演じなければいけないと思わされる場であった。私たちにとって女子というのは、装いでありプレイだった。
そんな若い頃の経験を『女子大で和歌をよむ―うたを自由によむ方法』を書きながらふと思い出していた。本書は、津田塾大学で行われた日本古典文学の講義で、和歌に焦点をあてて『源氏物語』『伊勢物語』『和泉式部日記』を読んでいくものである。授業のはじめには現代短歌を紹介し、授業のおわりには学生たちに課題に合わせた短歌を詠んでもらい、なおかつ授業の感想コメントを求めた。本書の最大の読みどころは、授業後に提出された学生短歌とコメントのおもしろさにある。
古典和歌というのはだいたいは贈答歌であり、男女間で詠まれた恋歌なのである。学生たちは恋愛の経験があろうがなかろうが、恋歌を詠まねばならないハメになり、妄想力を駆使してかなりガンバッテ取り組んでくれたらしい。ちょっとビッチに詠んでみよう!という課題をだしたとき、私はビッチな女であったことなどないのだが、こうかも?と思いながら詠むのはコスプレみたいで楽しいという声が聞かれた。(ちなみにこれは第十一回の課題なのだが「ビッチ」ということばは不穏当だと編集に指摘され「色好み」という語に改変してある。)
歌人と歌の関係は小説家のそれよりも緊密で、そうであるからこそフィクション性の高い短歌は評価しにくいようなところがあると思う。ところが、学生たちの詠む歌をみていて、それが女子歌という壮大なプレイであると気づくとき、『和泉式部日記』の和歌なども自作自演にみえてくるなどしたのである。
おりしもコロナ禍のオンライン授業であった。学生たちは率直なことばでコロナ禍を詠んだ。上野千鶴子さんに『テヘランでロリータを読む』じゃないけど「コロナ禍に和歌をよむ」をやったのね!とのお言葉をいただき、それをそのまま記事タイトルとしてパクっていることを申し添えておく。
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