イベント情報

戻る

大阪

公開研究会「軍『慰安婦』の声とポスト炉にある状況」第100回サロンde人権

イベントURL: http://www.rchr.osaka-cu.ac.jp/
主催者: 大阪市立大学人権問題研究センター
主催者URL; http://www.rchr.osaka-cu.ac.jp/
開始日時: 2013年07月17日 (水) 18時00分
終了日時: 2013年07月17日 (水) 20時30分
会場: 大阪市立大学文化交流センター大セミナー室 (大阪駅前第2ビル6階)
会場URL: http://www.osaka-cu.ac.jp/ja/academics/institution/bunko/index.html
連絡先: otazune@rchr.osaka-cu.ac.jp
登録団体:
パンフレット:
詳細: ○「第100回サロンde人権」 
「軍「慰安婦」の声とポストコロニアル状況」
-「女性のためのアジア平和国民基金」をめぐる論争を中心に- 

○日時:7月17日(水)18時00分~20時30分
○話題提供: 鄭柚鎮(同志社大学客員研究員)
○場所:大阪市立大学文化交流センター大セミナー室
(大阪駅前第2ビル6階)

軍「慰安婦」の声とポストコロニアル状況
-「女性のためのアジア平和国民基金」をめぐる論争を中心に-
     
                                             話題提供者:鄭柚鎮

*問題意識:
本発表の目的は、1993年8月「慰安所」に対する「軍の関与」を認め被害者に「お詫びと反省の気持ち」を表明した河野官房長官談話を継承するかたちで、1995年7月村山連立内閣のもとで発足した「女性のためのアジア平和国民基金」(以下、国民基金)をめぐる論争での被害者に対する再現(representation)の意味を分析することである。
この点に着目するのは、国民基金という制度の登場は、大別して①後期植民地状況での法的救済の意味、②代弁をめぐる政治学、③軍「慰安婦」性暴力という被害体験に対する社会的認識などの論点を包括していると考えるからである。本稿は、国民基金の登場を植民地支配に対する責任の問題、被害体験と法的救済との関係、被害者と被害者を支援する社会勢力との関係、償い金と名付けられたお金と「慰安婦」被害体験との関係、被害者の言葉をある証として想定する言語秩序、被害者の痛みと苦しみの処し方に関する問題などこれまで「慰安婦」問題とみなされてきた問題群自体を震撼させる極めて重要な契機であったと捉える。とりわけ、国民基金の償い事業が被害者の言葉をどう聞くかという論点を可視化する起爆剤として働いたという点に注目する。
「アジア女性基金の代表者が首相のお詫びの手紙を読み上げると感極まって涙を流し、償い金、医療福祉支援費のお金を受け取って心から感謝してくれた元『慰安婦』もたしかに存在した」とのべ、一貫して国民基金の活動を受け入れようとした被害者を取り上げる議論。また「私が会った元『慰安婦』は例外なく『日本政府の謝罪がほしい』と語っています。それなしには名誉の回復が得られないからです」といい、終始国民基金に批判的な立場をとった被害者を取り上げる議論。国民基金の解散後にも継続される、一部の被害者をとりあげつつ他の被害者を排除するかかる論議のされ方はいかなる認識を反映するのだろうか。同論争で用いられた「○○被害者はこう語る(国民基金を受け入れる/国家補償を求める)。だからこうしなければならない(国民基金を推進する/国民基金に反対する)」という主張が共有する前提はなにか。
語るということ、聞くということ。決着をつけきれない「語る」=「聞く」という動詞のもつ不安定さ、ある情動、この緊張感が「だからこうしなければいけない」といった目的論的決断のほうへいってしまう文脈にはどのような認識が働いているだろうか。
多くの論者は、日韓両国社会で生じた運動の「分裂」は国民基金の半官半民的な性格と償い事業の運び方に起因すると捉えた。また同基金に対する反対運動過程で一部の被害者が受けた「差別」は運動の民族主義的傾向と被害者観点の足りなさに起因すると論じてきた。うえのような論議は、1990年以降本格化された「慰安婦」問題に関する運動と研究の成果を反映すると同時に、国民基金をめぐる論争を単純化しつつ、「慰安婦」問題に関する議論空間そのものを縮小してしまうきらいがあると考える。
かかる問題意識にもとづいて本稿は、“○○被害者がこう語る。だからこうするのが正しい”といった論法にみられる、より良い聞き手になりたがる、真たるものを確認したがる、他者の言葉を正しく聞き取り正しく代弁しようとする良心的欲望の問題に注目する。被害者がこう語るからこうしなければならないという主張での被害者の言葉に対する正しい聞き取りとは、論議の客観性を保証する根拠というより、正しく聞き取って正しく代弁しようとする行為者のポジションと認識を問題化する論点として存在すると考えるからである。