エッセイ

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消費する自由がもたらす万能感(ドラマの中の働く女たち・16) 中谷文美

2015.01.26 Mon

『紙の月』
放映:2014年1月~2月、NHK
原作:角田光代(『紙の月』角川春樹事務所、2012年)
脚本:篠崎絵里子
主演:原田知世
公式サイト:http://www.nhk.or.jp/drama10/kaminotsuki/index.html

 あるとき、こんな疑問が頭に浮かんだ。国際線のファーストクラスの乗客のうち、「自分のお金で」そこにいる女性はどれくらいいるのだろう。むろん、男性にしてもファーストクラスの利用者の多くはビジネス客、あるいはマイレージによるアップグレード組なのかもしれないが、要は妻や恋人の立場でなく、自らの労働で桁違いの収入を稼ぎ出し、それを惜しげもなく使ってみせる女性がどれくらいいるのかという素朴な問いである。

 『紙の月』の主人公はファーストクラスには乗っていないが、そういう桁違いの金額を掌中にしたアラフォー女性ということになる。ただし、顧客の預金の着服という手段を使って。銀行の契約社員が起こした1億円の横領事件をストーリーの核に据えた角田光代の原作は、2014年にドラマ化された後、同じ年のうちに宮沢りえの主演で映画化もされ、話題を呼んだ。夫もいる平凡な女性が大それた犯罪に手を染めたのは若い男に貢ぐためだったという筋立てではあるが、それだけでは終わらない。

kami no tuki 結婚後、専業主婦となったが子どもができず、日々の生活に虚しさと焦りを覚えていた梅澤梨花(原田知世)は、働いてみたらという友人の助言に従い、近くの銀行でパートタイムの営業職に就いた。顧客の多くは高齢層の資産家で、梨花は請われるままに電化製品の説明をしたり、お茶を淹れたり、話し相手になったりすることで、頼られる存在になっていく。

 だが、収入を得る喜びとともに働くことの手ごたえを感じ始めた梨花に対し、商社勤務の夫、正文(光石研)は「たかがパートだしな」「(給料が)結構もらえるんだな。年寄りの愚痴きくだけで8万5千円なんて。まあ好きに使えばいいよ。生活に困ってるわけじゃないから」などと見下すような言動を続ける。外食をおごるからといった妻には居酒屋でいいと言い、次には自分が「パートの給料ではとても行けないような」寿司店に連れて行ったり、ペアウォッチを買った妻に、上海出張の土産としてあてつけのように高級時計を買ってきて、「この前のよりはちゃんとしたところにしていけるんじゃないかな」と言ってみたり――。本当は自分が働くことに反対なのかと尋ねた梨花に、「反対する理由なんてないよ。君が働いても働かなくても、何にも変わらないんだから。そりゃ僕が仕事を辞めるったら大問題だけど。たかが主婦のパートで一日に数時間、たかだか10万くらいの金をもらうくらいで、大げさに考えるなよ」と正文は言ってのける。

 それでも梨花は順調に営業成績を上げていき、資格試験を受けてフルタイムの契約社員となった。その頃、一人暮らしの顧客、平林孝三(ミッキー・カーチス)の家で、たまたま祖父を訪ねてきていた孫の光太(満島真之介)と出会う。大学生の光太が同級生と一緒に自主制作している映画に出てくれないかと頼まれたのをきっかけに、二人は関係を深めていく。光太が多額の借金を抱えていると知った梨花は、一刻も早く返済させなくてはと考えるが、自分名義のクレジットカードで化粧品や服を買うようになっていた彼女に十分な預金はなかった。そこで光太の祖父である孝三の定期預金証書を偽造することを思いつき、200万円を着服した末に「少しずつ返してくれればいいから」と光太に与える。そればかりでなく、光太が負い目を感じずにすむようにと、梨花はその程度の金額には頓着しないように見える裕福な女性を演じ始めた。これみよがしにブランド品を買いあさったり、高級ホテルのスイートルームで休日を過ごしたり、ついには光太に車やマンションを与えるなど、梨花の散財はどんどんエスカレートしていく。それを可能にしたのはすべて、顧客に次々と金融商品を売りつけ、偽造した証書と引き換えに手にした現金だった。

 梨花の高校時代の同級生だった中条亜紀(西田尚美)と岡崎木綿子(水野真紀)は、横領が発覚した後逃亡中の梨花に思いを馳せ、人一倍正義感が強かったはずの彼女がなぜそんな事件を起こしたのか訝しがるが、実は彼女たち自身もお金にまつわる問題を抱えていた。そもそも梨花の再就職のきっかけを作った亜紀は、買い物依存症が原因で離婚に至った。雑誌記者として安定した仕事に就いた今、再び買い物に歯止めがきかなくなりつつある。他方、木綿子は「お金にふりまわされなくてすむように」と節約を心がける毎日だが、あまりの徹底ぶりに夫は息苦しさから浮気に走り、娘は友達と同じもの欲しさに万引きをしてしまう。この二人にとって梨花の取った行動は解けない謎でもあり、ふとしたはずみに自分も陥りかねない闇でもある…。

 このドラマの制作発表では、脚本家も主人公を演じる原田知世も、梨花という女性がわからない、心情が理解できないと述べていた。たしかに年下の恋人を金銭的に支えたいという気持ちと大胆な犯罪行為の間には飛躍がありすぎる。だが私には、原作により丁寧に書き込まれている、専業主婦だった頃の梨花の心情にヒントがあるように思える。

 子育てという、大義名分とやりがいが与えられる「仕事」を得られなかった梨花は、持て余した時間を料理教室や美術館通いなどに費やすようになったが、夫のふとした言葉から、自分が使うお金はすべて夫のものであり、夫の許しを得なければ自由にはできないのだと悟る。そして亜紀に「人のお金で遊んでるような罪悪感がある」と告げるのである。正文は決して悪人というわけではない。むしろ妻思いの温厚な人物なのかもしれないが、彼が望んでいたのは、働こうと働くまいと、根本的に自分(と自分の稼ぎ出す収入)に頼るしかない妻の存在であり、しかもそのことを自覚させておくことだった。だから、職を得た梨花がささやかな矜持を持とうとすると、「君のはさ、いくら給料が上がったって、カネのためにやるような仕事じゃないだろう」といちいち嫌味を言ってしまう。

 一方、誰かに必要とされることを望んだ梨花は、「そのままの梨花さんでいてほしい。俺には梨花さんが必要だから」と言う光太にのめり込み、彼との関係を続けるために横領を企てた。だが横領した金で梨花が本当に買おうとしたのは、光太の愛情ではないだろう。むしろ梨花に必要だったのは「自分ではない自分を演じ続ける」ことができる現実であり、光太はその現実を支えるための蕩尽をそばで見届ける証人でしかなかった。梨花が光太にしたことは、自分に依存するしかない存在にすることであり、それは夫が梨花に望んだことと変わらない。その光太はいつの間にか大学を辞め、就労意欲をなくして「金稼ぐために魂売って、あくせく働くなんてばかばかしい」「人生にはもっと大事なことがあるってわかった。真面目に必死に働いたって、手に入るお金はたかが知れてるんだしね」と言うようになる。

 現代社会において、農業従事者でも職人でもない私たちの大半は、自らの労働の成果にふれ、それを直接消費することはない。私たちが労働の成果として手にするのはお金と、ささやかなやりがいだけである。収入もやりがいも夫に否定された梨花は、資産家である顧客たちの手元にある現金を自分の手元に引き寄せるという、誤った「稼ぎ方」を実践した。実際、部屋にこもってパソコン、スキャナ、プリンタを駆使し、架空の金融商品のチラシや偽の証書をひたすら作りつづける行為は、犯罪とはいえ、れっきとした労働のようにも見えてくる。

 私たちは結局、どのように働くかではなく、どのように消費するかで自分の存在を確かめるような社会に生きている。だからこそ、大金を湯水のように使う行為が梨花に、別の自分になったような万能感をもたらしたのだと思う。その大金が具体的にどこから来たかは不問にしたままで。

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 「ドラマの中の働く女たち」は、毎月25日に掲載予定です。これまでの記事はこちらからどうぞ。








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タグ:ドラマ / 映画 / 働く女性 / 中谷文美