2011.07.20 Wed
東京電力福島第一原子力発電所の事故の情報を続々と受け取りながら、なぜ自分はここまで原発問題・反原発運動に関わらずにすごしてきてしまったのだろうか、と問い返し続けている。私は、なぜに「原発はいらない!」と社会に対してもっともっと強く表明してこなかったのだろうか。 そこにはいくつか理由があるように思う。プライベートな忙しさにかまけエネルギーを湯水のように使う生活に対する批判力を失っていたとか、電力会社側の圧倒的なプロパガンダの前で危機感を維持できなかったとか、いろいろあるとは思うのだが、なによりも、ジェンダー・センシティブでありたいという思いと、反原発運動が相いれないように強く思う経験をしてきたことが、関係しているように思う。
アマゾンのサーバでエラーが起こっているかもしれません。一度ページを再読み込みしてみてください.甘蔗珠惠子『まだ、まにあうのなら 私の書いたいちばん長い手紙』は、1987年、チェルノブイリの原発の1年後に書かれた小冊子だ。 「なんという悲しい時代を迎えたことでしょう。 今まで、自分の子どもに、家族に、ごく少量ずつでも、何年か何十年かの地には必ずその効果が表れてくるという毒を、毎日の三度、三度の食事に混ぜて食べさせている母親がいたでしょうか。」 ここから始まるこの「長い手紙」は、「主婦」として暮らしてきた一女性が原発の危険性について、高木仁三郎氏や広瀬隆氏の著書や講演会を通じて学ぶ中で、原発をなくさないといけないと、いてもたってもいられず書き始めたものだ。 出版された24年前、ちょうど乳児を抱えていた私は、この冊子に反発を覚えていた。この冊子全体のベースにある、「子どものため」にいてもたってもいられないという「母親」としてだけのスタンスに苛立ちを覚えていたのだ。
アマゾンのサーバでエラーが起こっているかもしれません。一度ページを再読み込みしてみてください.田間泰子によれば、1980年代は、もっとも「母性神話」(3歳までは母の手で)が強かった時代と言われるが、その真っ只中にあって、「保育園に入れるなんて子どもがかわいそう」合唱の存在をひしひしと感じつつも大学院生を続けていた私にとって、「子どものためを思う母親」をあまりにもストレートに表明するこの冊子に対する反発は強かった。 当時、原発問題については私自身も知っていた。堀江邦夫『原発ジプシー』(2011年5月に復刊)はすでに発刊されていたし、甘蔗さんの学んだのと同じように私も原発について学んでおり、知識としてはあった。
アマゾンのサーバでエラーが起こっているかもしれません。一度ページを再読み込みしてみてください.けれども、「母親として」反対するのは嫌だった。「母親」として発言することによって、性別役割分業を肯定してしまうことになるのが怖かった。 今となっては、女性が「母親」として語ることと、社会全体が性別役割分業体制にあることを批判することは、何ら矛盾することはないと思う。「母親」としての経験が「女」全体の経験を代表するわけではないことを前提としつつも、むしろ「母親」としての経験から語ることばをもっともっと社会は評価すべきだとも思うのだ。(註1) 東京電力福島原発事故により、汚染された地域に生きる子どもたちの母親たちは、「子どもを守れ」というだろう。放射能の健康に対する影響力は若年層になればなるほど大きい。
小さな子どもをもつ母親は、子どもを疎開させるべきか、子どもと自分が移住するべきか、学校へ行かせるべきか、家の中にとどまらせるべきか、外で遊ばせるべきか、悩むこともあるだろう。なぜなら、子ども自身が放射能という目に見えない脅威に対して判断する能力が欠如していることがはっきりしており、その子ども=他者の安全を守ることができる位置に自分自身がいるからだ。そこには、自分が産んだからとか、女だからという以上に、自立できない他者を抱え、とりあえず自律的に行動できる(ということになっている)存在としての母親がある。 自立できない他者を抱え、とりあえずは自律的に行動できる(ことになっている)存在=大人としての、その役割を果たすために、女性たちが立ち上がることは、性別役割分業をアプリオリに肯定するということではない。 一人ひとりの人生の自由と豊かさを主張してきたフェミニズムは、自分のあとに人生を続けていく他者の自由と豊かさを守るために、脱原発を語る時が来たと思う。
そしてまた同時に、「お前だけ逃げるのか」「あなただけ怖がるのか」という社会の中でも家庭の中でもおこりがちな同調圧力に対抗する力の源になりえるような思想としてフェミニズムはある。真に「母親」=自立できない他者の人生における自由と豊かさを想う存在、として発言し、ふるまえるような環境を、条件をつくっていく必要がある。
私/あなた/「母親」/女の思いは、もっともっと尊重されていい。 アマゾンのサーバでエラーが起こっているかもしれません。一度ページを再読み込みしてみてください.註1:「母親」が生物学的に女性だけに与えられる役割であるとは限らない。マーサ・ファインマンが言うように、他者のケアを行う(ことにより二次的依存する者になりがちな)存在を「母親」とするならば、精子提供者もまた「母親」になれるし、あるいはまた、生物学的性に関わらず、遺伝子的に関係をもたない人々すら「母親」としての立場から語ることはできる。