2012.08.03 Fri
アマゾンのサーバでエラーが起こっているかもしれません。一度ページを再読み込みしてみてください.法廷の証言をされた一人目の方は、藤田祐幸さんでした。20分という限られた時間でしたが、パワー・ポイントを使って、戦後直後からの原子力開発の歴史を手際よく紹介していただきました。そして、藤田さんが「事実を語っているだけ」とおっしゃる、その事実によって、いかに原子力開発が潜在的核兵器開発として政治家たちに認識されてきたか、そして現在でもそうであるかを、否応なく見せつけられました。
「原子力技術は、潜在的核兵器として始まった」
藤田さんのパワー・ポイントの最初のスライドには、そう書かれてありました。1952年、ちょうど占領期が終わり、日本が独立国家として国際社会に復帰すると同時に、潜在的核兵器としての原子力開発が始まったのです。
以下では、歴史的事実については赤字で示すことにします。また、本レポートを書くにあたっては、藤田さんの論文である、「戦後日本の核政策史」(『隠して核武装する日本』所収)も参照しています。
・1952年4月20日:『読売新聞』にて、「(政府)は再軍備兵器生産に備えて科学技術庁を新設するよう具体案の作成を指令した」と報じられる。
これは、講和条約発効1週間前の報道でした。当時吉田内閣で科学振興に力を入れた人物として、前田正男という自由党の政治家がいました。かれが構想したのは、「原子力兵器を含む化学兵器の研究」や「航空機の研究」を中心とした研究所を設置することでした。
・53年12月:パールハーバー記念日に、合衆国大統領アイゼンハワーは、国連にて、「アトムズ・フォー・ピース」演説。IAEA (国際原子力機関)の設立を提唱。
とはいえ、実際にアメリカは、原子力情報を積極的に友好国に流すようになり、日本の要人たちも原子力施設を見学するようになります。
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・1954年3月1日:第五福竜丸、ビキニ環礁にて被爆。
・1954年3月2日:再軍備派の中曽根康弘によって、原子力予算が提出される。
この予算は、もちろん、核兵器をつくるための予算として提出されたのではなく、あくまで原子炉築造のための予算でした。しかしながら、驚くことに、当時の提案趣旨演説では、「新兵器や、現在製造の過程にある原子兵器をも理解し、またこれを使用する能力を持つことが先決問題である」と主張されているのです。
第五福竜丸の被爆の翌日、というこの歴史的な皮肉をどう理解したらいいのでしょうか。ただ、言えることは、この年を起点として、兵器としての原子力と平和のための原子力とは違う、という世論が形成され始める、という事実です。
・1954年4月23日:日本学術会議にて、「原子力の研究と利用に関し、公開、民主、次週の原則を要求する声明」が採択される。
・1955年8月8日:国連が主催する原子力平和利用国際会議が開催される。国会代表として、中曽根、前田などが議員団として参加。
・1955年9月12日:議員団声明として、「総合的基本法たる原子力法を至急制定し、… 資源、燃料、技術の国家管理、安全保障…の事項を規定すること」が求められる。
・1955年12月15日:原子力基本法が可決成立。その後、原子力の軍事的側面についての国会質疑は行われなくなる。
こうして、原子力委員会が発足し、その初代委員長は、読売新聞社主である正力松太郎になります。読売新聞と聞いて、現在の反原発デモに対する読売新聞の対応をすぐに思い浮かべるのではないでしょうか。正力によって、科学技術庁も設置されるころには、原子力の平和利用という言葉が、市民の間にも浸透していくようになります。
しかしながら、一部政治家たちにとっては、原子力はあくまで潜在的な核兵器であり続けました。
・1957年5月14日:岸信介は、「自衛のための核兵器保有は許される」と外務省記者クラブで会見。
この岸の発言に、本当に驚きを禁じ得ないのですが、藤田さんはさらに、「核兵器合憲論」は政府の統一見解とされ、村山富市内閣を経て、現在でも堅持されていることを指摘されました。これには、自分自身の無知の罪深さを思わずにはいられませんでした。
そして、時代は核武装論者、佐藤栄作の時代に入っていくことになります。藤田さんは、お話の途中で、「間違ってノーベル平和賞が与えられた」と、会場を笑わせてくれましたが、しかし、本当に笑えない歴史です。核武装論者である佐藤内閣の下で、非核三原則が提案されていくのですから。こうした矛盾を覆い隠していくのが、「核エネルギーの平和利用」と「アメリカの核抑止力への依存」です。
佐藤政権下で、安全保障調査会という私的グループが作られ、安全保障に関するさまざまな研究報告がなされていきます。そのなかでも藤田さんが大きく取り上げられたのが、「わが国の核兵器生産潜在能力」という68年の報告書です。執筆したのは、またしても読売新聞の科学部記者、石井洵でした。
この大部の論考は、「核弾頭の生産能力」と「運搬手段の生産能力」という二つの節から構成されていて、前者については、プルトニウム原爆(長崎型)がウラン原爆(広島型)より有望とされており、プルトニウム生産炉として東海炉に着目しています。また、後者は、核弾頭を運搬できる弾道ミサイル開発能力について不十分であると指摘し、当面は特殊法人を立ち上げ、大型プロジェクトを推進する必要性が説かれていました。
・1969年9月25日:外交政策企画委員会で、「わが国の外交政策大綱」という極秘文書がまとめられる。
この極秘文書は、2010年民主党政権になってようやく、秘密指定解除された内部文書でした。1969年新日米安保条約更新を控えるなかで、当面の外交政策が論じらています。
現在では、「極秘 無期限」と生々しく刻印されたこの文書を、外務省のHP上で読むことができます。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/kaku_hokoku/pdfs/kaku_hokoku02.pdf
また、日本における核問題に関連した情報を分かりやすく掲載する、「核情報」HP上に抜粋され、藤田さんも着目するのが、以下の記述です。
三つのことが言われているので、分かりやすいように、番号をつけておきます。
① 核兵器については、NPTに参加すると否とにかかわらず、当面核兵器は保有しない政策をとるが、
② 核兵器製造の経済的・技術的ポテンシャルは常に保持するとともに
③ これに対する掣肘(せいちゅう)をうけないよう配慮する(pp.67-8)。
簡単にいえば、表向きは① 非核を貫き、② 潜在的核兵器としての原子力技術は堅持する、しかも、③アメリカからも邪魔されないように、こっそりやります、ということなのです。
・1967年3月:「動力炉・核燃料開発事業団」設立。
・1969年6月:「宇宙開発事業団」(現・宇宙航空研究開発機構 JAXA)設立。
短い20分の証言の間に、藤田さんは、原爆の作り方と核燃料サイクルがいかに、サイクルとして破たんしているのかについても説明してくれました。
現在でも石破茂はじめ、一部の政治家たちは、正直に、そしておそらく正確に、日本が原子力発電所を廃炉にできない理由を語っています。
そして、藤田さんは最後に、以下の事実を指摘することで、わたしたちが今どこに向かっているのかを、厳しく法廷において問われたのでした。
・2012年6月14日:「独立行政法人宇宙航空研究開発機構法」の「平和目的に限る」との規定を削除。
・2012年6月20日:原子力基本法に、「我が国の安全保障に資する」目的が追加。
わたしたちは、原発がなくても電力は賄えることをすでに知っています。熱い夏もなんとか節電して乗り切ろうと多くの人が努力しています。そして、毎週のように、仕事で疲れた体に鞭打ってでも、「原発反対!」と声を挙げにいく多くの市民がいます。
ですが、その声に全く耳を傾けることがない一つの理由に、潜在的核兵器としての原子力技術の堅持、といった戦後日本の安全保障を支えてきた政治意志が強く働いていることが歴史的事実であることに、目をつぶったままでいることは、もはや許されないでしょう。