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『危険なメソッド』鬼才監督があぶり出す、精神分析医 ユングの苦悩と葛藤。上野千鶴子
2013.01.24 Thu
フロイトとユング、この近代精神分析を確立したふたりの巨匠、師弟にして宿敵を描いたとあっては好奇心がうずうず。しかもデヴィッド・クローネンバーグという鬼才が世紀転換期のヨーロッパを舞台に史実にそってドラマ化するというのだからそそる。ドラマの焦点はユングの女性患者との許されぬ愛。
精神分析では転移(患者の治療者に対する愛着)が起きやすいことに警告が発され、治療者は患者の誘惑に乗ってはならないことになっている。そりゃそうだろう、誰にも言ったことのない内面の秘密を分かち合う相手に、性愛感情を抱いてもむりはない。いくらそれが治療過程の症候の一種だと聞かされても、相手が魅力的なら治療者の側も自分を抑えるのはむずかしいだろう。事実、知り合いの精神科医は、境界性人格障害の女性って魅力的な人が多いんですよねえ、それに誘惑がうまいし…と述懐した。それに乗ったかどうかまでは聞きそびれたが。
ユングの前に富裕なユダヤ系ロシア人の美少女が患者として訪れる。ザビーネ・シュピールライン。キーラ・ナイトレイが好演。本人に自分を語らせるという精神分析の「談話療法」は今日のナラティブ・セラピーに引き継がれているけれども、タイトルのとおり「危険な治療法」だ。患者の妄想や心理の底へ共に降りていかなければならないからだ。ミイラ取りがミイラになりかねない。告白から彼女のトラウマのもとが父から受けた幼児期の体罰(からの性的興奮)だということがわかる。性的虐待が伴っていたと、あたしはにらんだね。トラウマはくりかえす。その患者の固着の共犯者に、治療者自身がなっていく。ああ、めくるめく誘惑だろうね。そのうち逆転移(治療者の患者への愛着)が起きる。患者への執着に身も世もなく顔を真っ赤にして泣き崩れる中年の紳士をマイケル・ファスベンダーが好演。
幼児期の性的虐待は精神分析のアキレス腱だ。フロイトは「ドラの症例」で、患者から告白を引き出しておきながら、困惑の余り、患者の妄想だと否認してしまった。そのせいで子どもの性的虐待が「発見」されるまでに、それから半世紀もかかってしまったのだ。そこがフロイトの俗物性で、患者のトラウマにのめりこむのがユングのロマン性なんだろう。両者の対比は描かれるが、ユングがその後、なんで超常現象のような神秘主義へ行ってしまうのかが、この映画ではわからない。
世紀末ヨーロッパの紳士淑女の仮面のもとで性が何もかもを説明する精神分析を唱えるのはどんなにスキャンダルだったことだろう。それだけは伝わる。
初出掲載 クロワッサンプレミアム 2012年12月号 マガジンハウス社