【フェミニズム入門塾 第5回「母性」受講生レポート】

◆WANフェミニズム入門塾 第5回「母性」 受講レポート  作成:Mizuki Ono

フェミニズム入門塾、第5回のテーマは「母性」。第2回「フェミニズム理論」の回に引き続き、江原由美子先生を講師にお迎えして開催された。

■「母性」について
テキストや講義を通じて、「母性」という言葉(言説)は、医療領域における妊娠・分娩・産褥期の女性の身体的特徴や状態を示す狭義の意味から、女性のアイデンティティとしての母性、子どもとの関係を規定する「母性神話」に至るまで、歴史的社会的背景のもとで、非常に多種多様な使われ方をしてきたことを知った。ディスカッションの中で江原先生は、「母性」がケアとの関連において総じて“良いもの”として使用されてきた一方で、この言説が抑圧的、搾取的な効果をもたらしてきた事実を指摘された。これを聞いて、私は自分の母のことをふと思い出した。
***
私の両親は、私が就学する前に離婚した。散々揉めたのち、親権は母がとり、私は母に連れられて母の実家に居を移すことになった。同居していた母方の祖父がガンで他界すると、母はしばしば私に暴力を振るうようになった。学校のテストで満点をとれなかった、ピアノでミスなく演奏できなかった、持久走で前回の記録を更新できなかった等、母の思い通りに出来ないと、殴られたり蹴られたり物を投げつけられたりしながらよく長時間のお説教を受けたものである。幼い私には逃げ場がなく、泣きながら痛みに耐え、母の怒りが収まるのをただじっと待つことしかできなかった。豹変する母を目の当たりにするたび、本やTVドラマの中で見た「母性」溢れる優しい母親に憧れた。虐待の渦中にあった私にとって、「母性」とは絶対的に正しく良きものを示す言葉であったことは間違いない。
しかし、大人になり母とのパワーバランスが完全に逆転した今、改めて当時を振り返ってみると、母を抑圧し苦しめていた正体もまた「母性」であったのではないかとの考えに至った。遺伝的なつながりを持つ唯一の子という“心の拠り所”(もしくは依存先)を死守したものの、それこそ「途中で投げ出せない」という脅迫にも近い視えない圧力に加え、自分の思うようにいかない子育てに対するイライラや焦り、孤独な環境下で抱える精神的負担など、母にとっては“キャパオーバー”になってしまった部分が私への虐待として表出していたのではないか。精神的に常に不安定で、対人関係や何か一つのことを継続するのがひどく苦手な母にとって、一人娘の子育ては極めてアンビバレントなものであったのではないかと推察する。さらに考えてみると、母方の祖母(1941年生)は当時にしては珍しく圧倒的に「仕事>家庭」な女性であり、家事・育児をほったらかしにしてきたことから、翻って母の中の「母性」の呪縛を強化することに繋がった部分も否めないのではないか、という私個人の分析である。
***
以上のような私自身の経験はあくまで一事例に過ぎないが、ニュースで散見される悲しい事件にも象徴されるように、「母性」を特定の個人や性別に押し付ける制度や規範は、母親と子どもの双方にとって悲惨な結果をもたらしうることから、これを社会的な政治課題として捉えるべきだとの江原先生の主張に、とても共感した。(なお、私の母はその後統合失調症と思われる症状をはじめ、心身ともに慢性的な不健康状態にある。親子関係は軽く絶縁状態である。)

■生殖と女性の健康に関わる問題について
「母性」を巡るもう一つの大きなテーマである、避妊・妊娠・出産・中絶などの「子産み」「子育て」に関わる問題についても思うところがあったので、少し個人的な思いを綴っておきたい。今回の講義のまとめにおいて、江原先生は、日本の産婦人科医療の遅れやSRHRを巡る若年女性が直面している様々な課題について言及されていた。この点に関しては、本当に喫緊の課題であると思っている。
私は出産以外でこれまで幾度も国内外の産婦人科にかかってきたが、日本の産婦人科は極めて機械的で、女性をあくまで診療対象の客体物としてしか扱っていないと強く感じてきた(この点は、ブレイクアウトルームにおいて他の参加者の方々からも同様の経験を伺った)。他の診察科にかかる時とは異なる、あの名状しがたい不安な気持ちを抱えながら診察室に入ると、こちらの話を全然聞いてくれずに機械的な説明だけであっという間に診察が終了したり、時には(なぜか)説教じみたことを言われたりする。下着を脱いで検診台に乗っても、カーテンの仕切りの向こうで何が行われているのかも分からないまま子宮口に管を通されたり(激痛あり)、あるいは人工妊娠中絶の手術後、意識が朦朧とする中で「取り出した子をプラス1,000円で埋葬もできますがどうしますか?そのまま廃棄の場合は無料です」とか情もクソもない言葉をかけられたりする。私たちは、ただ、健康で幸せな生活を送るために、自分の身体のことをよく知り、自ら考え、最良の選択をしたいだけなのに、その過程でどうしてこうも(無用に)傷つけられ、悲しい思いをしなければならないのだろうか?日々の生活の中で理不尽に遭遇するたびに、怒りが湧いてくる。

個人的にはかかる思いを抱える一方で、講義ビデオの中で江原先生が、『生殖を巡る問題は、宗教団体や製薬会社、人口ナショナリズム等の政治的交差点にあり、こうした影響を受けながら国内の生殖政策が規定されている。決して身近な身体や実感の話だけではなく、ものすごく大きな政治的問題の一つである』と仰っているのを聞いて、わずかな絶望感を覚えた。「女のからだの管理」が人口政策の一環であるのなら、日本の女性たちが「からだの自己決定権」を主張し、誰もがアクセスできる安全かつ安価な避妊・中絶法を訴えても、少子化に歯止めがかからない状況下においては、土台無理な要求なんだろうか?一体全体どうしたらこの国で、女性が一人の人間として、自らの健康を追求できるようになるのか、考えさせられる回でもあった。

■最後に―運営について
なお、今回は本塾における新たな取組みの一環として、講義後の全体でのディスカッション及び質疑応答に加えて、Zoomのブレイクアウトルーム機能を活用した参加者間での意見交換・経験共有の時間も設けられた。また、チャットも積極的に活用され、個人的には前回までとはまた一味違った活気に満ちた回だったと思う。
ぜひ今後も、同じ時と場を共有できる“仲間”(Chifumiさんの前回レポートより拝借しました!)との交流、ネットワーキングが進むといいなと思います!
(了)


◆WANフェミニズム入門塾 第5回「母性」 受講レポート  山本悠

全体に、子どもを産み育てる事の形は常に国家の介入の結果にあり、母性というシステムがいかに国にとって(男にとって?)ローコストで便利か、それが利用されてきたか、改めて思い知らされる気持ちでした。 個人的に、当本人が望まない範囲での母性の強制力は社会の中でようやく反発の声が大きくなっているとは思うのですが、悪意のない『やっぱり子どもにはお母さんが必要』という神話は再生産され続けている様に思います。
それは、上野先生が子育てについて女性の自己実現は子育てしかなかった、という事をおっしゃっていたと思うのですが、子育ての神話が親子になった当人たちにとって自己の存在肯定のためにわかりやすくすがりやすいものでもある事も、理由の一つなのかなと感じました。
底辺高校の教育の場に立ち会っていて、その神話を必要とする子どもたちが沢山いるのを感じています。単純に母子家庭が非常に多いこともあるのですが、『お母さんに愛される』『お母さんを支える』『家族を再生産する』といった物語に憧れを持つ子たちは少なくありません。自分がうまく母の愛情を貰えなかったからという理由で求める子も多いです。不安だからだと思います。
本人たちが必要とする物語に文句はつけられないという事になっている気もしていて、『母子家庭の美談』を美しく感じ取る先生方も多いのですが、個人的にはいやーな感じです。
周りに他に受容してくれる大人がいないからでは?とか、ほかに夢を持てる様な教育を受けられてないからでは?とか。
『親なんていなくても子どもは育つよ』と言える世の中になればいいのに、と個人的には思っています。


◆フェミニズム塾第5回「母性」レポート  MORI

筆者は、現在社会人大学院生であり、1児の母である。2000年代初頭に大学を卒業して広告制作の仕事に就いた。毎日深夜まで膨大な仕事に追われ、男でも女でも働ける人間が働け、という文化のなか、男女格差についてさして疑問も持たず、日々を暮らしていた。いま考えれば、ネオリベ改革、バックラッシュに影響を受けていたことは否めず、無知かつ想像力の欠如した社会人だった。お恥ずかしい限りである。
しかし、2015年の出産を機に、変わらざるを得なくなった。自治体から届く子どもの健診の書類はすべて母親宛て。その都度、仕事の調整をして乳児を連れて出かけるのは私だ。健診会場にいるのもほぼ母親。父親がいることもあるが、「母親に付き添う」形である。
保育園の入園申し込みに自治体を訪れるのも母親が多い。両親揃って、という家庭もあるが、父親が一人で来るのは稀だ。私は2度転園をしており、当時は「保育園落ちた。日本死ね」の真っただ中だったので、何度も役所の窓口に足を運んだが、最後まで父親単体の姿を見ることはなかった。これって、女性だけの問題なのだろうか?と思った。
入園が決まると、実母や義母が「3歳まではお母さんと一緒に過ごさないとかわいそう」と口を揃える。3歳児神話はすでに迷信であると育児雑誌などに明記されるようになった。それが女性を労働力にしたいがための政治的な動きと関連していたことを先日の講義で学び、合点がいった。しかし、実母は、もともと英語教師になりたい夢があったのに専業主婦という選択肢しかなかった自分の人生を否定されたくないという思いが強く、「赤ちゃんのうちから保育園に入れるなんて」、「旦那さんのお給料だけで食べていけないなんて」と繰り返していた。母親は、経済的な理由以外で働きたいと思ってはいけないのだろうか?
入園すると、保育士が「子どもはお母さんと過ごすことがいちばんです」とにこやかに言う。子どもが指しゃぶりをすると、「お母さんの愛情不足ですね」。父親が送迎を担うと、「協力的で素晴らしいパパですね」と、褒められる。え?私のことは誰が褒めてくれるの?
次第に、私の頭のなかは、「なんでこうなってるの?」「これじゃ困るんだけど」という思いでいっぱいになった。当時、すがるように上野先生の『家父長制と資本制』と、江原先生の『ジェンダー秩序』を読んだ。今でもバイブルである。そこには、なんでなんでなんで、というモヤモヤの答えがすべて書いてあった。次第に自分の手で問いを解きたい、という思いに駆られ、ジェンダー研究を志した。これは、上野先生の仰る「情報はノイズから生まれる」ということだったのだと、後から知った。
今回のテキストを読み、「母性とは観念ではなく、制度なのだ」という一文にハッとさせられた。これまで育児界隈にある謎のイデオロギーにどれだけ振り回されてきたことだろう。そして今もモヤモヤし続けている女性は数えきれないほどいるはずだ。
出産・育児だけではない。リプロダクションについて知るほどに、私の子宮は国に管理されているのか、と憤りを覚える。中絶の同意書に相手のサインをもらえなかった看護学生の有罪判決を見て、男性はどう感じるのだろうか?

休日に子どもと公園へ行くと、必ずと言っていいほどスマホを凝視している父親らしき男性と出くわす。その男性が連れてきた子どもは一人で遊んでいるか、他の母親が見守っていることが多い。そして、さしてお礼も言わず子どもの腕を掴んで去っていく。
これは何だろう。モヤモヤは日々増えるばかりだ。当塾の塾生として、さらに学び、問いを立てていきたいと思う。