「『彼女の行為は正当防衛であった』: 夫の首を切り殺害した容疑の女性が釈放される」
(グアテマラの新聞「Prensa Libre」2022年3月22日付記事: https://www.prensalibre.com/ciudades/alta-verapaz/actuo-en-legitima-defensa-mujer-senalada-de-haber-decapitado-a-su-esposo-queda-en-libertad-breaking/)

中米グアテマラで、2022年3月13日、カルメラ・ジョロムナ・ヤットさんが、酒に酔ってマチェーテ(農作業等で使う山刀)で脅し性的関係を強要してきた夫を殺害した容疑で起訴された。その後の弁護側の訴えで、彼女や彼女の子どもたちはこれまでの長い間、夫から絶え間ない暴力や虐待を受け、命の危険にさらされてきた被害者であったこと、彼女が自身や子どもたちを守るために取らざるを得なかった行為であり正当防衛であったことが認められ、3月21日に釈放されたという記事である。
このニュースを知り、わたしは、正当防衛が認められたことに驚いた。殺人が正当防衛として認められたことに対してではない。「女性」であり、さらに「先住民マヤ族」であったカルメラさんの正当防衛が認められたことに対してである。なぜならこの事件が起こったのが、女であるだけで、先住民であるだけで、ただそれだけの理由で、不当な差別、理不尽な扱いをされ、さらにそれが当たり前のこととして許容されている社会だったからである。

「女」として、さらに「先住民」として受ける二重の差別。そして「先住民」として差別される側にいる「男・夫」から、さらに「女・妻」として受ける二段階の差別。この二重プラス二段階の差別を受けているカルメラさんや同じような境遇にいる女性達はいったい何を思い、何を考え、どのような人生を送っているのか。そして、なぜ夫を殺さなければならなかったのか。

      

小説『女であるだけで』
『女であるだけで(原題:Chéen tumeen x ch’uupen/Sólo por ser mujer)』は、メキシコの作家ソル・ケー・モオ氏による一人のマヤ族女性の人生を描いた小説である。著者自身マヤ族の女性であり、本小説の原書も彼女の母語であるマヤ語で書かれている。

この小説で描かれる主人公オノリーナの人生が、先のニュース記事のカルメラさんの状況と重なる。オノリーナもカルメラさんもマヤ族の女性であり、酔った夫からマチェーテで脅され、暴力を振るわれ、抵抗しているうちに誤って夫を殺してしまう。オノリーナは殺人の罪で服役中に、やはり弁護人の訴えで夫の暴力の被害者だったことが認められ釈放される。

オノリーナは、先住民の村の貧しい家族に生まれた。彼女には4人の兄がいたが、女は彼女一人だった。「女である」オノリーナは家計の足しのために父親の「所有物」として男に売られた。その男は、彼女を「妻」という名の「所有物」とし、当たり前のように日常的に暴力をふるい、さらには売春までさせた。オノリーナは、自分は夫に買われた「所有物」だから、夫が自分を捨てない限りずっと夫のものであり、夫は彼女をどうするか決められる唯一の人間なのだと受け止めていた。

オノリーナはこう語る。
「あたしは女にあるという権利のことはあんまり知らない。だけど、確かなことは、女の人生は大変だってことさ。男の考え一つで何もかも難しくなるんだ。だって、命令するのは男だろ。間違ったからって、女が代わりに命令する訳じゃない。やっぱり男が命令するんだ。女は命令に従うだけ。だって、男があたしたちを養ってくれてるわけだから。あたしたち女にも男と同じ権利があるって言う人がいるけど、それ、一体誰が男たちに言って聞かせてくれるんだい?(・・・)だから、女を守る法律なんて役に立たないって言ってるんだ。ましてや、女はあたしみたいに、字が読めないだろ。全部口先だけのいんちきさ。法律があろうがなかろうが、女、特に先住民の女は、所詮、いつまで経っても同じさ。」(p. 136-137)

オノリーナの弁護人である弁護士のデリアはこう擁護する。
「(・・・)女は女に生まれるだけで、男が得られるのと同じ機会は得られないんです。貧しい女性の場合特にそうです。先住民に至っては、どの先住民でも同じですが、なおさらです。女は、文化も法も男性を優遇する社会の中にあって、スティグマを背負わされているんです。」(p.205)

そして、著者はこう強調する。
「(・・・)女は男として生まれてこられなかっただけで、重たいハンディキャップを背負わされてこの世で生きていかざるを得ない。それに比べて男は、どんなに貧しい社会であっても、アドバンテージが与えられているのだ。」(p. 206)

オノリーナは、
「女であるだけで」能力も価値もないものとされた。
「女であるだけで」男の所有物とされ、男の言いなりになるしかなかった。
「女であるだけで」権利や法にも守られなかった。

オノリーナは、不当な扱いをされても我慢し耐えた。それが女の運命なのだとその境遇を受け入れた、というより受け入れるしかなかった。自分の「所有主」がこの世からいなくなるまでは。それしか選択肢がなかった。「自分の身を守るには他に手立てがなかったんだ。だって、みんなして、あたしの不幸を見て見ぬふりをしてたんだ」(p. 30)

夫がこの世からいなくなったとき、オノリーナは自由を手に入れた。自由とは、自立し自分の人生を自分で決めて生きることだった。

「女であるだけで」
世界中で、日本中で、一日にいったい何回の「女であるだけで」が起こっているのだろう。
わたしたちは、一生のうちにいったい何回の「女であるだけで」の経験をするのだろう。

「女であるだけで」教育の機会が制限される
「女であるだけで」選挙権や発言権が奪われる
「女であるだけで」大学入試や就職が不利になる
「女であるだけで」結婚すると苗字の変更を半ば強制される
「女であるだけで」理由もなく殺される
「女であるだけで」・・・

これらのことが、ただ単に、ほんとただ単に、「女であるだけで」起こる。男ではなく「女であるだけで」、ただそれだけ。ほんと、なんとも不可思議な世界。なぜこれが根拠のないこと、意味不明な、ノンセンスなことだということに気がつかないのか。理解できないのか。

いや、気がつき行動する人も少しずつ増えてきている。

はじめに書いたように、わたしはカルメラさんのニュースを見て、正当防衛が認められたことを(喜ぶよりもまず)驚いた。メキシコやグアテマラで、先住民、特に先住民女性に対する根深い差別を見て感じてきたわたしにとって、まさかオノリーナがカルメラさんとなって小説を飛び出し、現実の世界に現れるとは思ってもいなかった。

カルメラさんが、マチェーテを振り下ろした日から釈放された日まで8日間である。その短期間に、彼女の正当防衛が認められるよう働きかけ支援した人がいて、裁判所もそれを認めた。以前からこのようなケースで弱者の側に立ち、守り、支援する人々はいたが、それは少数派であり、権力者・強者の声にかきつぶされていた。今回、その弱者側の声が聞き入れられ、尊重されたのは、同じような境遇にいる人々が声をあげるようになり、その声が多くなり大きくなってきたからなのでないか。

一つ一つの声が小さくても、その数が増え、集まれば大きな声になる。その声はきっと岩山をも震わせ、動かすことができるだろう。

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文献:『女であるだけで』ソル・ケー・モオ著、吉田栄人訳、図書刊行会、2020年
原著:『Chéen tumeen x ch’uupen/Sólo por ser mujer』, Sol Ceh Moo, 2015年

新聞記事:「『彼女の行為は正当防衛であった』: 夫の首を切り殺害した容疑の女性が釈放される」
原タイトル:「”Actuó en legítima defensa”: mujer señalada de haber decapitado a su esposo queda en libertad」 (グアテマラの新聞「Prensa Libre」2022年3月22日付インターネット記事)
https://www.prensalibre.com/ciudades/alta-verapaz/actuo-en-legitima-defensa-mujer-senalada-de-haber-decapitado-a-su-esposo-queda-en-libertad-breaking/)

女であるだけで (新しいマヤの文学)

著者:モオ,ソル・ケー

国書刊行会( 2020/02/27 )