「分断する」言葉ではなく、「つなぐ」言葉を求めて。

著者は数々の翻訳書を刊行している1982年生まれのロシア文学研究者です。2008年にロシア国立文学大学を日本人として初めて卒業しました。副題にあるとおり、文学を探しにロシアに行った著者が、経験したこと、学んだこと、考えたことを美しくみずみずしい文章でまとめています。2022年2月に起ったロシアによるウクライナ侵攻への動きは、著者が大学に在籍していた時代からありました。例えば、ある教授が口にした「ウクライナ語よりロシア語のほうが文学的で優れている」と急に言い始めて、著者を含め学生達が怒りと悲しみに包まれる様子を次のように書いています。

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しかしこういった現象は、突如として現れるわけではない。二〇〇八年の講義で文学史の教授が「ロシア語のほうがウクライナ語より文学的で優れている」と言ってしまったあの瞬間を、私は二〇一四年以降に幾度も苦々しい気持ちで思い返した。仮にも言葉を教える大学である。ある大教室の壁には、レフ・トルストイの言葉が掲げられていた──「言葉は偉大だ。なぜなら言葉は人と人をつなぐこともできれば、人と人を分断することもできるからだ。言葉は愛のためにも使え、敵意と憎しみのためにも使えるからだ。人と人を分断するような言葉には注意しなさい」。その教えは私たちにとって指標であり規範であった。現代文学のゼミで差別主義的な思想を含む小説を扱ったときに、発表をした学生がトルストイのこの言葉を引用し、「これは隣の教室に書かれているトルストイの言葉で言うなら『分断』を招く作品ではないのか」と批判していたのを覚えている。それなのに、教授が先陣を切ってあんなことを言うなんて。

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しかしまた、ロシアでは、少なくともこの文学大学の中では、文学、とりわけ詩が生きているということが幾度も描かれています。

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アントーノフ先生はいつも教室に入ってきてから出ていくまで一分一秒も無駄にしてたまるものかという勢いで授業をしたが、九月の終わりのあるとき一度だけ、教室に入ってくるなり「今日は授業の前にちょっと外に出ましょう、みんなついてきなさい!」と言って教室を出ていってしまった。みんなでぞろぞろとあとをついていくと、先生は大学を出て通りに向かう。そして大学から歩いてほんの数十歩のところの並木路にあるエセーニン像の前に立ち、「今日はセルゲイ・エセーニン の誕生日なので、みんなで好きな詩を読みましょう、やりたい人!」と呼びかけた。学生たちはわあっと盛りあがり、われ先にと銅像の前に歩み出て次々に詩を暗唱していく。さすがは文学大学、と感心し、私は同級生たちの元気な声に耳を傾けた。エセーニンほど愛されている詩人も珍しい。文学が好きな人なら誰でもひとつやふたつは暗唱できるのだ。

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今、ロシアだけではなく、世界中で、テロ・貧富・宗教により分断が進み、状況が激変していっています。著者は、「分断する」言葉ではなく「つなぐ」言葉を求め、文学とは何か、ということをあらためて問いかけます。そしてたしかに文学の言葉は人に力を与えてくれることがわかります。そのことが心に深く染みこんでいく本です。

◆目次
一.未知なる恍惚
二.バイオリン弾きの故郷
三.合言葉は「バイシュンフ!」
四.レーニン像とディスコ
五.お城の学校、言葉の魔法
六.殺人事件と神様
七.インガの大事な因果の話
八.サーカスの少年は星を掴みたい
九.見えるのに変えられない未来
一〇.法秩序を担えば法は犯せる
一一.六七歩の縮めかた
一二.巨匠と……
一三.マルガリータ
一四.酔いどれ先生の文学研究入門
一五.ひとときの平穏
一六.豪邸のニャーニャ
一七.種明かしと新たな謎
一八.オーリャの探した真実
一九.恋心の育ちかた
二〇.ギリャイおじさんのモスクワ
二一.権威と抵抗と復活と……
二二.愚かな心よ、高鳴るな
二三.ゲルツェンの鐘が鳴る
二四.文学大学恋愛事件
二五.レナータか、ニーナか
二六.生きよ、愛せよ
二七.言葉と断絶
二八.クリミアと創生主
二九.灰色にもさまざまな色がある
三〇.大切な内緒話
言葉を補う光を求めて

◆書誌データ
著者・奈倉有里(なぐら・ゆり)
タイトル・夕暮れに夜明けの歌を 文学を探しにロシアに行く
定価・1800円+税
総頁・272頁
判型・四六判/仮フランス装
発売日・2021年10月7日
発売・イースト・プレス

夕暮れに夜明けの歌を 文学を探しにロシアに行く

著者:奈倉有里

イースト・プレス( 2021/10/07 )