2011.07.29 Fri
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W・G・ゼーバルトの『空襲と文学』によれば、戦後のドイツ文学においては、ドイツ諸都市を襲った無差別空爆の体験についてほとんど表現されていないという。ナチによる犯罪が世界に与えた衝撃を前に、戦後のドイツ社会ではみずからの被害を語ることがタブー視されたというのはじゅうぶんに想像できる。
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その例外的作品としてゼーバルトはハンブルク空襲後の様子を描いたノサックの「滅亡」(『死神とのインタヴュー』所収)を紹介している。破壊された市街地を歩く「わたし」はそれ以前であれば日常的な出来事(窓ふき掃除、午後のコーヒーなど)を目にして「それはまるで映画のようであり、元来あり得ないこと」と感じ、やがて「さかさまになった目で別世界の行為をながめているのだ」と気づき、みずからの状態に愕然とする箇所にわたしは、今回の3月11日のことを思い浮かべずにはいなかった。
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ところでドイツとは異なり、日本では東京大空襲やその他の大都市を狙った無差別爆撃は、戦争体験の継承としてむしろ積極的に語られていると言っていいだろう。けれど「絨毯爆撃」という言葉にも象徴される、戦闘員・非戦闘員無差別の大量の焼夷弾を使った無差別爆撃が1938年~1943年にかけて日本軍が中国の重慶爆撃に始まることはあまり知られていないのではないか。本書『重慶爆撃とは何だったのか』では日本軍による重慶爆撃について、その全体像、中国から見た重慶爆撃、被害者の被爆体験、そして現在進行中の重慶第爆撃訴訟について取りあげられている。
今回の震災と空襲を安易に結びつけるつもりはないが、けれど3月11日以前と以後ではわたしの本書の読みかたもちがったのではないかと思う。(lita)