「日本でMeTooはなぜ話題にならなかった」のか (ジャーナリスト・中野円佳)

上野千鶴子塾長の「マスコミからの取材で、日本でMeTooはなぜ話題にならなかったのかと聞かれ、ふざけるな、あなたたちが取り上げなかったからでしょうと言った」という発言が印象的でした。

講義では林香里先生から、メディアの男女比率についてや、伊藤詩織さんの事件について大手メディアが取り上げた記事数の衝撃的な少なさについてのデータ提示がありました。

一部週刊誌については、伊藤詩織さんの記事を載せる雑誌があったり、映画界の性被害を表に出し、訴訟を起こされながらも奮闘している雑誌があったりし、一定の役割を果たしていると思います。週刊誌は訴えられても、それで裁判が起これば、取材源や被害者の方が直接闘うことなく、真実が明らかになる可能性があります。

でも、日本のマスメディアはMeTooについて殆ど取り上げてこなかった。

当事者は自分のリスクで顔を出し、名前を出すというのは大きな負担になります。自分以外の証言を探すのも大変なことです。伊藤詩織さんの場合はご自身がジャーナリストでしたが、本来は、それを代わりに担うのがジャーナリズムだと思います。

入門塾の後に、米国のMeTooの中心となった『She Said』を読み返したり、『Catch and Kill』をAudibleで聞いたりする機会がありました。

米国のMeTooはNew York Timesの記者達がハーヴェイ・ワインスタインの長年の性暴力を記事にしたことをきっかけに表沙汰になり、その記事を書いた記者達の奮闘が描かれているのが『She Said』です。

同様に、『Catch and Kill』も、この問題を10ヵ月に渡って取材し、New York Timesの5日後にNew Yorkerで報じピューリッツァー賞を受賞したローラン・ファローによる記録です。

NYTの記者達は、ハーヴェイ・ワインスタインの抵抗に遭いながら弁護士や編集長と闘い続けます。『Catch and Kill』では、ローラン・ファローが何度も関係者から「気を付けて」と言われる様子がえがかれています。身の危険さえ感じながら、心ゆれる被害者たちを何とか説得し、証言を集めていきます。彼はTV局から放映を断られています。

それでも表に出す覚悟をもったジャーナリストたちがいたから、ワインステインは逮捕され、MeTooは大きなうねりになりました。日本に、そのようなジャーナリストたちがいたか。私もジャーナリストとして、メディアにかかわってきた人間として恥ずかしいです。

講座の中では、ケアだとか女性にまつわる問題は、私的領域の問題であるとして、ニュース価値を見出されないという点が指摘されました。米TV局でも起こったこととして、加害者側に近しいなどで触れない、という可能性もあると思います。

それに加えて、自分自身がジャーナリストとして活動してきた経験から思ったことを付け加えるのならば、日本のメディアには、特に性犯罪等について、逮捕や起訴、裁判があるまで、自分たちでどちらの言い分が正しそうかを調査し判断し報じようとはしないというスタンスがあると感じています。

私は2020年にキッズラインという会社を通じてマッチングしたベビーシッターが子どもに対して起こした性犯罪事件について報道をしました。この件に関しては、内閣府のベビーシッター補助券対象事業という形で公的事業の一角を担う企業が杜撰な運営をしているという構造的な問題があったにもかかわらず、大手メディアは当初扱いが非常に小さく、私自身も雑誌等に売り込んで断られたこともありました。

この事件の報道は、先日の児童福祉法改正でシッター登録者の行政処分歴がデータベース上で公表されるようになるなどの制度変更にもつながったのですが、多くのメディアは加害者が逮捕されたり、法改正がされないと動こうとしないわけです。

でも、ただでさえ声をあげにくい領域だからこそ、誰かが注目しなくては、問題自体が存在しないかのように扱われてしまう。林香里先生の『〈オンナ・コドモ〉のジャーナリズム ケアの倫理とともに』のタイトルがあらわすように、女・子ども・ケアの領域は、軽んじられ、不可視化されてきました。

大本営発表がなくても、自分たちで証言を掘り起こす調査報道をどうしてしないのか。権力を監視するべきジャーナリズムは、政治だけではなく、私的に権力を利用して性暴力をする人たちを監視すべきではないのか。

どうして日本でMeTooが盛り上がらないように見えるのか、本当にメディアは自問をしてほしいです。


第7回フェミニズム入門塾「表現とメディア」レポート 中村真琴

私の住んでいる家にはテレビが無い。最近は同じような家も増えているのではないだろうか。元々独身時代からテレビは殆ど見ていなかったし、思い起こせば小学校の頃もジャニーズアイドルの存在を知らずクラスメイトに教えてもらった。
そして去年、夫婦2人きりの我が家では「テレビが家にある必要性を感じない」という意見の一致で引越の際に手放した。
私の情報源は、主にNHKラジオと日本経済新聞である。
パソコンやスマホは検索時に少し見る位だ。その為か、ソフトニュースに全く疎い。
前の職場では、「ドラマの話が一緒に出来ない」と言われたこともある。
しかし、幸いと言うべきか夫もどちらかと言えばその傾向にあり、2人の会話はハードニュースの方が多い。
フェミニズムについては、その概念を入塾し初めて知った程で、ここで学べる事は私の人生の幸運のひとつだと思っている。夫と結婚する辺りから、他者からの性役割の圧力を感じる事が多くなったからである。
そんな私にとって、今回の「表現とメディア」
あまり馴染みがないような・・・気がする。
林香里先生の講義の中に、日本のメディア構造の序列は
・男性>女性
・シニア>ジュニア
・大手>中小
とあった。
遅れたジェンダー感を押し付けられた読者が再生産する(「失敗しないためのジェンダー表現ガイドブック」より)のは、制作者側(主に意思決定権を持つ男性)のジェンダーバイアスに基づいて選別された情報が発信されるからであり、そこに女性が関わっていたとしても、プロフェッショナリズムに埋め込まれたマスキュリニティ(男性性)によってブレーキをかけることが難しい。
必ず読む雑誌を挙げるとすると、まず“日経WOMAN“が浮かぶ私としては、マスメディアを担う側は一般企業とは違って公平中立で、ジェンダー感覚も日本の先端をいくものだろう、と思い込んでいたようだ。
想像力の欠如による恐ろしい勘違いである。
ジェンダーに限らず、何事も自分にバイアスがかかっていないか、立ち止まって考える事が大事だなと秘かに反省し、自分が「知らない」人間であると改めて認知した。
最後に、今回の講義を受けての個人的な意見としては、メディア業界や、少なくとも官公庁などでは税理士や弁護士と同じように、ジェンダーの専門家と顧問契約をしてみる価値があるのではないだろうか?
何かあった時に事後策を取るよりも費用対効果があり、効率的ではなかろうか、と一般視聴者としては思うのだ。