『何を怖れるーフェミニズムを生きた女たち』を観て    チューヤン

この映画に出てくる女性達が進んできた道はもちろん異なる。それぞれが汗だくで泥だらけになり、時には傷を負いながら、目の前に立ちふさがる壁に挑み必死で超えてきた。ふと後ろを振り返ると歩んできた道が延びている。違う道だったけれどそれぞれの経験に共感し、それを共有して、その足元は強固になっていく。霧で隠れていたはずの道が見えるようになっていたり、心細く通った道が懐かしく思えたりしているのだろうか。そんなイメージが浮かび、想像を膨らませた。
 今回の鑑賞を終えて、7年前に初めてこの映画を観た時の興奮を思い出した。「こんな女性たちがいるんだ!」その存在と生き様を知り、驚きと喜び、そして「スゴいものを観てしまった、出会ってしまった、私どうしよう!」自分の中に抑えようもない何かがマグマのように噴き出していた。誰かに話したくて、でも言葉に出来なくて、ただただ一人で興奮していた。同時に「もっと早く出会いたかった。知っていれば私の人生は違うものだったのに」というなんとも言えない悔しさもあった。
 今回再びあの女性たちと出会った。それぞれの置かれた状況、目の前にあった壁、それらへ対応するためにどんな選択をしてきたのか、以前よりもその存在を身近に感じながら観させてもらった。7年前も今も変わらなかったのは観終わった後に、熱くて、強くて、あたたかい何かを自分の中に感じたことだった。「もっと早く出会いたかった」その気持ちも変わらずあったが、知らずに過ごして来た私も含めて今の私なのだ、となんとなく思えている自分を意識していた。


『何を怖れるーフェミニズムを生きた女たち』を観て  MORI

 フェミニズム入門塾特別番外編として、ドキュメンタリー映画『何を怖れるーフェミニズムを生きた女たち』を鑑賞する機会をいただいた。特別講義の当日には、松井監督が来られて塾生からの質問などに答えてくださった。
 この映画のことは、以前から知っていた。鑑賞する機会がないまま時が過ぎていたが、頭の片隅にずっとある映画だった。なぜそれほどまでに、惹きつけられたのか。それは、タイトルによるインパクトからくるものであろう。日常に埋没して痛みを忘れようとする私たちに、この映画は『何を怖れる』と、正面から問いかけてくる。
 実際に視聴すると、そこには、さまざまな場所で闘ってきた女性たちの穏やかな表情があった。タイトルから想起されるような「今の女性は何を怖がっているの? もっと闘いなさいよ!」という威圧はなかった。むしろ、痛みなしでは語れないような、ご自身の体験を穏やかに話す女性たちがいた。
 視聴しながら、私は一体、何を怖れているのだろう、と何度も思った。女性にとって助けのなかった時代に、女性たちの手によってリブが誕生し、女性学が生まれ、日本のフェミニズムの歴史が切り拓かれた。この恩恵を私は当然のように「タダ」で受け取っているだけである。
 私は現在大学院生だが、先日、他研究科の学生に研究内容を聞かれ、ジェンダーだと答えたところ、「ずいぶん徳のある研究をしてるんですね。まったく儲からなさそうだけど」と言われた。あの時どうして言い返さなかったのだろう。先輩フェミニストから授かったいくつもの「言葉」があるのに。
 井上輝子さんは「我慢しないで、自分が嫌だと思うことは嫌だと表明する」、それがリブの原点だという。差別構造を解消しないまま、個人の努力によるものとしての「女性活躍」が叫ばれるなか、おかしいことはおかしい、これじゃ困るんだけど、と、たった一人でも言い続けなければならない。
 映画を観た後、本を読んだ。この本は手元に置いておかなければならないと思った。読み終えると、ラストの隅田川のシーンが蘇った。闘い続けた女性たちの優しい表情がいまも頭に残っている。