ゴーシュ晶子 プロフィール

 ボストンで不動産エージェントを自営。日本からおいでになる方が到着してからなるべく早く本来の目的に取り組めるように「ジャンプ・スタート・ボストン」と称して家の紹介だけでなく、生活立ち上げのサポートも提供している。  高校時代には交換留学生としてノース・ダコタ州に行く。大学在学中に結婚した相手はインド出身。その後何度もインドに行くうちに、目にする素晴らしい手仕事に魅了されて東京・高輪にインドのインテリア雑貨店、「スタジオ・バーラット」を開く。ボストンに移住したために8年後には閉店したが、これからは更にインドとのかかわりを深めたいと思っている。

◆NPO ボストン・日本商業会 理事
 http://www.jbbboston.org/
◆The Boston Pledge は夫が立ち上げたNPO こちらではインドの村起こしプロジェクトに関わっている。
 https://thebostonpledge.org/


◆移民の国 米国
 1620年。102人の乗客と30人の乗組員を乗せたメイフラワー号は、10週間の間荒波を乗り越えてマサチューセッツ州プリマスについた。乗客の多くは「信仰の自由」を求めてやってきた。そのうち半数は生き延びることができなかったが、そんな強い意志を持ってきた人々が成功しないわけはない。それを見て次々に入植者が増えた。そして1776年にはイギリスからの独立を勝ち取るが、その戦いの火蓋を切ったのは、ここボストンである。

 2021年のFortune誌が選んだ全米上位500社のうち44%(220社)は、移民かその子供たちによって設立されている。そして、その220社によって生み出される年収は620兆円。日本のGDP 520兆円を優に超える金額である。この220社はお金を生み出すだけでなく、当然、雇用も生み出している。2019年の国勢調査によると、労働人口の17.4%は米国外生まれである。ボストンのあるマサチューセッツ州では6人に一人は国外生まれ。そして、マサチューセッツ州で生まれた人の6人に1人は、少なくとも親のどちらかは海外生まれだ。

 マサチューセッツに住む移民の教育レベルは、他州の移民と比べると高い。3/4は高卒以上、1/3は大卒以上。そして、移民たちの半数以上はその後に市民権を取得している。この割合は全米比でも最も高い方だという。つまり、教育レベルの高い移民達がここを自分の国とし、貢献していくということだ。移民は国のエンジンなのである。

 今回は、ボストンで知り合ったプロフェッショナルな女性たち、中でもイラン、バングラデッシュ、インドから移民した友人たちから聴き取った話を3回に分けてお伝えします。 

◆イランから来たファリバ
 今現在、イランでは「へジャブ」をめぐって大きな動きが起こっている。イスラム教、シーア派の国イラン。家の外で女はその髪を見せるべきではない、というルールは絶対のものとし、道には「風紀警察官」が立っており、へジャブをきちんとしていない場合は逮捕される。先日、逮捕された22歳のアミニが遺体になって返されたことで、もうこれ以上我慢ができない、と、人々が道に繰り出している。多くの死者も出ているという。ソーシャルメディアの広がりで、国が伏せておきたい事でもあっという間に世界中に伝わる今なのだ。

 私がファリバに会ったのは、26年前。私たち家族がボストンに引っ越してきてすぐ、息子たちが友達を連れてきた。名前はメディ。イランの名前だ。そして、彼を迎えに来たのがファリバだった。当時30歳前半、ミニスカートでやってきた素敵なママだったが、小柄で、少しシャイだが、実にたくましい女性だった。

 
 彼女が育った頃、イランは親米パフラヴィ王国。女性たちはミニスカートのいでたちでなんの制限もなかった。もちろん、へジャブをつけている女性たちもいたが、選択の自由があったということだ。ところが、近代化に伴って格差が生まれてきた社会に「イスラム教」への回帰の動きが起こり、1979年イスラム革命が起こった。ファリバは当時16歳。1980年9月、イラン・イラク戦争が勃発。学校は閉鎖された。

◆結婚、歯科大学へ入学、そして出産
 ファリバは17歳で、軍医をしていた夫に嫁いだ。ファリバの父は医者だったので、自分も医学部に、特に歯医者になりたいと思っていた。なぜ歯科医か、というと、「技術と科学」を融合している分野だからという。彼女が通ったミッション・スクールは女学校だったが、卒業後、戦争のためすぐではなかったが、ほとんどの友人は大学教育を受けているという。皆が裕福な家庭出身というわけではなかっただろうが、教育意識の高い家庭の出身だったのだろう。

 幸い、軍医をしていた夫はファリバが歯科大学に通うことを許してくれた。大学を卒業するのには6年かかる。彼女はその期間中に息子を出産。学費は無料だったが、その代わり卒業後に歯科医のいない貧しい地方に通って治療をする、という義務があった。その間、母の助けを借りられたので出来た。だが、その時イランの社会はどんどん保守的な方向に向かっていた。

 母になり、歯科医になる勉強をする忙しい日々だったがそこで夫から離婚を言い渡される。親権は夫のもの。妻には離婚請求権もなければ、何も要求する権利がないのだ。2歳になったメディは夫のもとで暮らすことになったが、後に、夫の都合でメディはファリバのもとに戻ってきた。その夫もファリバを母として認めていたのだろう。彼女は息子を取り戻すことができたのだ。

◆アメリカへ、そして開業まで
 イランからアメリカに移住する数はそれほど多くない。テヘランでアメリカ大使館員が人質に取られた事件を覚えているだろうか。両国間の関係はそれ以来最悪だ。だが、幸運なことに、ファリバは、つてもないのに、米国へのビザを手にすることができたのだ。その時、ファリバの弟はボストンの歯科大学で勉強していた。そして、妹もボストンの大学に通っていた。それから何年かしてからであったが、ファリバがメディを連れてボストン移住を決めたのは当然ともいえる。

 イランで歯科医であっても、マサチューセッツでは当地のライセンスが必要。そこで、ファリバは再び歯科大学に入学する。通常は8年かかるのだが、それを2年半でクリア。それまでの経験と実力が認められた結果だ。一番苦労したのは英語。イランでは英語を使っていなかった。そして、母一人子一人の生活。自分が授業を受けるとき、メディを隣に座らせていたことも多かったという。そのお陰か、メディは楽々、歯科医になり、今はニューヨークで活躍している。 

 米国でのライセンスを早々と取得し、ファリバが自分の歯科医院を築くのにもそれほど時間はかからなかった。あっぱれである。

◆ファリバからのメッセージ:若いイランの女性たちへ、世界の女性たちへ
 今の自分があるのはよい教育を受けることができたから。何としても勉強をしてほしい。そして、女性たちが正当な権利を主張している今、男性たちとも手を組んでともに立ち上がってほしい。

《インタビューを終えて》
 ファリバが生れたイランは地理的に中央アジアから中東、ヨーロッパの近くまで広がっていて、多くの民族が行き来した歴史がある多民族国家だ。今ではイスラム教の国家だが、元はゾロアスター教(拝火教)のペルシャだった。同一人種が大多数の国、日本で生まれて育った私が理解しようとしてもしきれない部分だ。折につけ、もっと知りたいと思っている。

次回、「バングラディシュから来たプラヴィーン」に続く


*ゴーシュ晶子さんの他の記事はこちら:https://wan.or.jp/article/show/10069#gsc.tab=0)