12歳の少年が一人、旅に出る。初めての一人旅は1973年11月、京都駅から東海道本線で東京へ。中央本線で塩尻を経由して名古屋へ。関西本線、紀勢本線、阪和線から大阪天王寺、環状線、東海道本線を回って京都駅まで。子ども料金2590円。

 1970年代に終わりを告げるSL(蒸気機関車)に乗り、学校が休みになると少年は日本中を旅する。黒川創『旅する少年』(春陽堂書店 2021年10月)の表紙は、トンネルを歩いて抜けようとして蒸気機関車と出会い、煤で真っ黒になった少年が小川で水浴びをした後、ご飯を頬張る写真だ。まだ幼い。D51、C58、C61が煙を吐いて走る写真が口絵を飾る。今年は鉄道開業150年だ。

 少年は、なぜそんな旅を続けたのか? 「今の自分が立つ世界が、どこまで、どんなふうに続いているか。見知らぬ町や村で、どんな人たちが、何をして働き、食べ、暮らしているのか? 自分で出向いて、この「世界」の輪郭を確認したかった。旅という行動に居場所を見つけて、のめりこんでいったのではなかったろうか」と自らの子ども時代を振り返って書く。

 私も子どもの頃、母の里帰りに大阪から熊本まで24時間、蒸気機関車に乗って行った。1950年代はまだ鈍行の時代。改札口から脱兎の如く走って窓から乗り込み席をとる人々。夜が明けて「厚狭(あさー、あさー)」と構内アナウンスが流れる中、ホームの洗面所へ顔を洗いにいき、発車のベルが鳴っても帰ってこない母をドキドキしながらじっと座席で待っていた私。小学4年生の夏休み、早く熊本に行きたいと、私一人で「阿蘇」号に乗り、堅い4人掛けのシートに座って、一晩、夜汽車で行ったことがある。関門トンネルに差しかかり、隣のお兄さんが慌てて窓を閉めてくれたが、窓から飛び込んできた石炭殻が目に入った。泣いていたら向かいの席のおばさんが「こっちをお向き」と顔を引き寄せ、瞼をめくって舌でペロッと舐めて石炭殻を取ってくれた。

 黒川少年は1973年、小学6年生で「思想の科学」に「思想」という作文を書き、原稿料5000円をもらう。「やりたい事」をテーマに旅への好奇心も書いている。すごいなあ。少年の父はその頃、「ベ平連」の事務局長を務めていた北沢恒彦。鶴見俊輔らの「思想の科学研究会」の編集委員でもあった。少年は中学の頃、京都・出町の喫茶店「ほんやら洞」(1972年~2015年に火災により焼失)でアルバイトをし、店主の甲斐扶佐義に2階の物置の暗室でネガの現像の手ほどきを受けたとか。先頃、京都・寺町のギャルリー宮脇で「甲斐扶佐義写真展」が開かれた。昔懐かしい出町の風景の白黒写真が螺旋階段沿いに並んでいた。

 少年が泊まるのはバックパッカーの定宿ユースホステル。1泊2食付1450円に少年パスの割引が付く。私の大学時代、女友だちと3人、東北や九州を回った頃は500円だったかな。「山女、山女」と地元の子どもたちに冷やかされて重いリュックを背負って歩く。岩手県宮古市の北端、白く尖った流紋岩が林立する浄土ヶ浜へ、地元の漁師の小舟に乗って着く。ほんとに迎えにきてくれるかしらと心細かったが、1時間後に海の向こうに小舟が見えてホッとする。岩手県一関の砂鉄川渓谷・猊鼻渓へは道中、知り合った大学生とボートを漕いで上流の浅瀬にテントを張り、星空の下で眠ったこともある。九州ワイド周遊券で宮崎から鹿児島の南端・佐多岬までバスでゆく。断崖絶壁の灯台から海の彼方に向けて「沖縄が見えるよ」と叫んでみた。

 そんな女友だちの一人はジャーリストになり、今はフランス・パリ7区で一人、暮らしている。もう一人は医者として「国境なき医師団」に参加、中東にいると風の便りに聞いた。あれからもう半世紀余り。少年の旅も学生の旅も、懐かしいなあ。

 そして青年の旅。沢木耕太郎『深夜特急』(第1巻~第6巻 新潮社 1986年、1992年)は500万部突破の大ベストセラーだ。香港からロンドンまで、東から西へバスの旅に出発したのは1973年、沢木耕太郎26歳の時。1年を超える旅を終え、10年後に第1便と第2便の本を出し、第3便が出たのは、さらにその6年後のことだ。旅はいつまでも色褪せないのだ。

 『深夜特急』のタイトルは映画「ミッドナイト・エクスプレス」から思いついたとか。「ミッドナイト・エクスプレスとはトルコの刑務所に入れられた外国人受刑者たちの間の隠語である。脱獄することを、ミッドナイト・エクスプレスに乗る、と言ったのだ」とある。そう、まさにこのタイトルでなくっちゃ。本を開くと写真が1枚もない。あるのは簡単な地図のみ。ただ文字だけを追う。なのに情景が鮮やかに浮かび上がり、登場人物がグイグイ目の前に迫ってくる。何度読んでも読み飽きない不思議な本だ。

 1991年1月17日、私の初の海外旅行は香港へ飛ぶ。その日は湾岸戦争勃発の日だった。イラク空爆のニュースが空港で繰り返し流れていた。一方、平凡な暮らしの中で子育てと姑の看護と看取りに明け暮れ、結婚22年目の離婚を経て40代半ばを過ぎた私は、「さあ、これからは一人で自由に生きていこう」と思っていた。

 香港は雑踏の街。湧き出る人々の群れとそれを支える海産物と農産物の山。ビルの隙間の細い谷間にテントを張った屋台がひしめき、急な坂道の市場は賑わいを見せる。宝石店の隣には大衆食堂が並び、路上に竹籠をかぶせてアヒルがバタバタと騒ぐかと思えば、豚が丸ごと店頭にぶら下がっている。その隣には漢方薬の問屋が連なるというふうに。1997年、「中華人民香港」となる前の香港は活気溢れる人々が、たくましく生きる街だった。香港返還25年の今年、習近平のもと、「一国二制度」にある香港は、今、どうなっているのだろうか。

 第1巻。沢木耕太郎は香港の最初の安宿を「黄金宮殿迎賓館」という九龍の招待所、つまり「連れ込み宿」にとる。ガイドブックも持たず、街をぶらぶら歩いて「廟街」の賑わいに出くわし、「これぞ香港」と納得する。マカオのカジノで「大小」を当てるサイコロ博打でディーラーと客の駆け引きを眺めるうち、自らも「やろう、とことん。金がなくなるまで」と挑戦するが、やがてキリをつけ、夜更けのフェリーで水面に浮かぶ夜景を眺めつつ、「そろそろ香港を出発しようか」と思う。

 第2巻はマレーシア・シンガポール。オートバイの爆音が響くバンコク。シンガポールの宿では大卒後、出社1日目にサラリーマンを辞し、ルポライターになった著者自身を振り返る。第3巻はインド・ネパールの旅。道端にうずくまる最下層の人々。インド北部ブッダガヤへ若い日本人に誘われ、アウト・カーストの子どもたちと共に孤児院アシュラムでの共同生活を過ごす。第4巻はシルクロード。「絹の道」を西へ、ひた走る、ヒッピー・バスに乗り込んで。第5巻はトルコ・ギリシャ・地中海。最後の第6巻は南ヨーロッパ・ロンドンへ。ようやく長い旅に「終わり」を告げる。

 思い起こせば私も2007年夏、イスタンブール~マルタ~シシリア15日間の旅をした。南周りのトランジットを含めて15日間に10回、飛行機を乗り継ぎ、宿も決めずに、ふらりアジアとヨーロッパを跨いだ。イスタンブールの宿はスィルケジ駅近く、一つ☆の安宿。「3日泊まるから」と少しまけてもらう。サインをすると「Mineはトルコの女の子によくある名前だよ」とフロントの男が笑った。

 窓からボスポラス海峡が見える。朝はモスクから聞こえるコーランの祈りで目が覚める。ガラタ橋には、ひがな1日、小アジ釣りの人々が連なる。アジア側のユスキュダルへ連絡船で10分。1950年代、アーサー・キッドの「ウスクダラ」を子どもの頃、よく歌ったものだ。江利チエミもカバーしてたっけ。帰って部屋で一服していると突然、向田邦子「阿修羅のごとく」のテーマ曲がトルコの軍楽隊の演奏で響いてきた。なんとオリエント・エクスプレスが終着駅スィルケジ駅に入ってきたのだ。走って駅構内にもぐり込む。アガサ・クリスティ『オリエント急行殺人事件』そのままの列車が10両以上。スルタン風の車掌と並んで写真を撮ってもらう。

 シシリア島・カターニャ空港で手荷物がなかなか出てこない。町はシエスタの午後はひっそり、のんびりしている。土日は、どの店も閉まったまま。なんかイタリアらしいなあ。

 でもイタリアは、おいしい。1996年、イタリアの旅で、ふらり立ち寄ったミラノのガリバルディ駅近くの店「Antica Trattoria della Pesa」のリゾットは絶品だった。北イタリア特有のバター風味が口いっぱいにひろがる。壁にホー・チ・ミンの写真がかかっていた。尋ねると「ホー・チ・ミンがフランス共産党にいた頃、ここに匿って、しばらく滞在していたんだ」。1969年のホー・チ・ミンの突然死と、1975年のベトナム戦争終結。だが今も続く世界各地で起こる戦争は、なお終わりそうにない。

 地中海の海と空と島々はひとつながりだ。そして民族も。ギリシャ、ローマ、サラセン、オスマントルコ。アレクサンダー大王やナポレオンが戦いと融合を繰り返してきた地中海。そのすべての歴史を、あの突き抜けるような明るさで、海はずっと見続けてきたのだろうかと、ふと思った。

 さらに西へ。2008年、ポルトガルへの旅。沢木耕太郎がユーラシア大陸の西の果て、ポルトガルのザグレスで「旅の終わり」を思ったならば、私は大西洋が眼前に広がるポルトガルのロカ岬に立とうと決めた。しかしロカ岬に着くと一帯は真っ白い霧の中。仕方なく曲がりくねった田舎道をバスでビュンビュン飛ばして50分、シントラへ。王宮からムーアの砦を眺めていたら急に霧が晴れてきた。「そうだ、もう一度、ロカ岬へ行こう」と思い立ち、戻ってくると断崖絶壁の岬は雲一つなく、くっきりと青い空。正解だ。アジアからヨーロッパへ、その向こうに「イギリスが見えるよ」と叫んでみる。


 ポルトガルのCP(国鉄)で、AP(特急)、インテルシターダ(急行)、レジオナル(普通)、ウルバノス(郊外線)に全部乗る。しかも当時、誕生日を迎えたばかりの前期高齢者の私は交通費も入館料もシニア料金で半額。申し訳ないくらい。

 安宿はいつも市場近くにとる。ポリャオン市場には色とりどりの野菜や果物がいっぱい。なんて安いんだ。調味料や香辛料は計り売り。コンフェイトウを1キロ買う。日本円で300円。安い。アフリカンの子どもの売り子が計って包んでくれた。「オブリガーダ」と礼を言う。

 沢木耕太郎は『旅する力 深夜特急ノート』(新潮社 2008年)に、「わかっていることは、わからないということだけ」という言葉が、ユーラシアの旅で学ぶことができた最も大事な考え方の一つになったと書く。若者たちに、旅に「行く」だけでなく、旅で「感じる」ことの大切さを伝える。そして「恐れずに」「しかし、気をつけて」と言葉を添えて。

 遠くへ行きたい。知らない街へ。旅する少年も青年も、そして老年もまた。池内紀・川本三郎『すごいトシヨリ散歩』(毎日新聞出版 2021年10月)を読み、いくつになっても旅はいいなと思う。3年前、79歳で亡くなられた池内紀さん。もっと旅をしてほしかったなあ。あっ、パスポートが今年7月に切れてしまったんだ。あと10年、パスポートを更新して「いつかまた旅に出ようかしら」と思うこの頃。